その日暮らし日記へもどる
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1997年11月下旬の日記
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12月01日
ファミリーレストランに出かけ、架空戦記小説の追い込み。なんとかアップさせる。一太郎でプリントし、夜中までかかって赤入れ。
12月02日
赤入れを元に原稿ファイルを修正し、編集者への送付用プリントアウトとフロッピーを作成し、速達で発送。
12月03日
レース小説をやらないかと声をかけてくれた雑誌の編集部に出かけ、編集長と顔合わせ。帰途、知り合いの編集プロダクションに寄り、Macをいじる。新宿で『レディジョーカー』など小説を多数を購入。これで年末年始は楽しめる。
その帰り、高円寺に寄って磐紀一郎さんとアンコウ鍋。帰宅は深夜。
12月04日
ニフティに出かけて会議。その後、忘年会。眠気がひどいので早めに帰る。
12月05日
外出疲れのせいか体調悪し。終日、家でダラダラ。資料読みに徹する。
12月06日
昨日に同じ。資料読みをするのはいいのだが、深夜になると目が霞む……。
12月07日
参考資料の本を読む。読書の時間は、やはり最高の至福の時間です。
12月08日
会社の登記簿謄本を取りに車で法務局練馬出張所へ。年末のせいか混雑していたが、30分ほどの待ち時間で謄本が出来上がり、それを封筒に詰めて大手広告代理店に送る。新規取引扱いで口座を開設するために会社の謄本が必要なんだとか。この会社の仕事、過去にもたくさんやってきたのだが、よく考えたら、いつも間に別の会社が入っていて、支払いはそちらからだった。
12月09日
家族が吉祥寺へ出かける用事があるというので車で送っていき、そのままパルコ地下の書店で本を購入。昨年の発売以来探し続けていた『Hack!! ハッカーと呼ばれた青年たち』(笠原利香・著/ジャストシステム・1996年12月26日・刊/本体・1,456円)をついに発見し、即座に購入。喫茶店に飛び込み、そのまま一気読み。「現代の“ハッカー”」の生態がわかって面白かった。著者がヨーロッパから日本の出版社に原稿を送るためにパソコン通信を始めた頃(10年くらい前かな)、ちょこっとお手伝いしたことがあるのだが、その後、アメリカに移住してからの彼女の活躍ぶりは、スゴイの一言。いつのまにかパソコン雑誌で名前を見かけるようになったなと思ったら、地の利と好奇心と行動力を活かして、こんな本までまとめてしまった。もう感服の一言だ。
『Hack!!』に登場した現在の「ハッカー」たちの様子を見ていると、規制や取り締まりが強化されたことで反対に先鋭化し、かえって犯罪に直結しているようにも見える。そんな彼らに対する著者の「優しいまなざし」に対する批判(「ハッカー」という言葉の定義についても)もあるようだが、著者が直接彼らと接し、彼らが根っからの犯罪者ではなく、彼らの行為が思春期、あるいは青年期ゆえの衝動から生まれたものだということを、よくわかっているからなのではないか。著者が述べている「青春期」「通過儀礼」といった言葉に深く同意したのは、ぼく自身が、手作りの送信機を使って無免許でアマチュア無線の交信(「アンカバー」という)を試したりした経験があるからかも。自分で作った送信機から発射される電波が、どのくらい遠くまで飛んでいるかを試したくて、違法と知りつつ電波を発射していたのは中学1年生のときだった。自分の技術を試したくなる好奇心と衝動を止められない……という心理もすごくわかるんですよね。
12月10日
ちょっと息抜きに、先日、大ベテランのモータースポーツカメラマン、間瀬明さんが送ってくださった世界初の実用型携帯パソコン「タンディ100」(正式名称はTRS-80 Model 100」)をいじる。
タンディ100が届いたおかげで、手元には、タンディ100、その後継機のタンディ200、タンディ100の日本版ともいえるNECのPC-8201という初期の携帯パソコン3兄弟が、すべて揃うことになった。
元祖モバイルPC三兄弟
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Tandy 100
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Tandy 200
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NEC PC-8201
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このパソコン、1980年代初頭に登場したもので、液晶ディスプレイも40桁×10行ほどしかないが、ワードラップのできるエディター(簡易ワープロ)、表計算のマルチプラン、プログラミングをするためのBASIC、そして300bs、Bell使用のモデムが内蔵され、通信ソフトもついていた。このパソコンを設計したのは、当時、マイクロソフト副社長だった現アスキー社長の西和彦氏で、実際の製造は京セラだ。
このパソコンを最も愛用したのは新聞社、通信社を中心とする記者たちで、1984年のロサンゼルス・オリンピックのとき、日本の新聞記者が「メインスタジアムである陸上競技場のプレススタンドで、手書きの原稿を書いているのは日本人のみ。欧米の記者たちは、小型の“タイプライター”を持ち込んで記事を書いていた」と書いているのを新聞で読んだことがある。この「タイプライター」の正体こそタンディ100で、あちらの記者たちは、モデムから電話回線を通じて本社のコンピューターに記事を送り届けていたのである。
マスコミ関係者、出張の多いビジネスマンたちに愛用されたタンディ100は、100万台を超えるヒットとなったが、単一機種の発売台数では、この記録はまだ抜かれていないはずだ。
1985年頃にNECから発売されたPC-8201は、このタンディ100の日本版だったが、残念なことにモデムと表計算機能は削除され、かわりに半角カタカナが使用できるようになっていた。RS-232C端子に音響カプラーをセットすれば、屋外でも通信できるのを知り、早速、1台購入した。パソコン通信に使っていたPC-9801は、自宅から離れた事務所に置いてあったため、自宅用兼サーキット用として買ったのだが、当時アクセスしていたのはThe Source、CompuServe、Delphi等のアメリカのネットワークが中心で、また日本でスタートしたばかりのアスキーネットや草の根BBSのほとんどは、半角カナしか使えない状態だったので、PC-8201でも特に不便は感じなかったのである。半角カナだけのメールやメッセージで、アスキーネットの会員とバトルを演じたのもこの頃のことだが、いま思えば、その文章も、ほとんど昔の電報みたいなものだったに違いない。このバトルを演じた相手と渋谷で対決(?)することになり、多くの観戦者も交えてアスキーネット初(日本でも創生期の)オフライン・ミーティングが開催されることになった。待ち合わせ場所の忠犬ハチ公像の前では、目印にパソコン雑誌を掲げることになっていたのだが、そこに参加したメンバーの持ってきたパソコン雑誌が、「アスキー」や「ログイン」あるいは「I/O」の創刊号だったりと、当時のパソコン通信ユーザーのマニアぶり、オタクぶりがうかがわれる一齣であった。バトルの相手とも実際に対面してみれば、ギャラリーがたくさんいたこともあって、互いにニヤニヤ照れ笑い。半角カタカナのコミュニケーション故の意思疎通の齟齬も判明し、結局、バトルしていたこともすっかり忘れ、一気に打ち解けてしまったのであった。
画面が広くなったタンディ200は、海外からやってくる外国人パソコン通信ユーザーへの貸し出しマシンとして重宝した。そのユーザーの一人に昨年、CARTインディカーレースで事故死したジェフ・クロスノフ選手もいる。彼は後にポータブルMacを使うようになるが、自前の携帯パソコンを持つ前は、ぼくがこのマシンをホテルに届け、使い終わると宅配便で送り返してもらうようにしていたのだ。
このタンディ200は、1987年にコンピュサーブの「Tandy Model 100 SIG」というタンディの携帯パソコンユーザー向けフォーラムで、「売ります」というメッセージを見て申し込み、購入した中古品。偶然、このメッセージを掲載していたのが、The Sourceでチャットして以来、来日するたびに会っていたニューヨークの広告代理店経営者で、2日後には国際宅配便で到着。代金は翌年の夏、彼の家に家族で押しかけ泊めてもらったときに現金で支払った。
その後、東芝のノートパソコンが普及し、京セラがタンディ200の製造を中止すると、タンディ100からタンディ200に移行していた記者たちがパニックに陥った。DOSの知識がないと使えない東芝のノートパソコンでは記事が書けないというのが理由。中古品にまでプレミアがつき、ぼくのところにも売ってほしいというメールや電話が入ってきたほどだ。
この携帯パソコン3兄弟の利点は、なんといっても単3電池4本で動くこと。基本ソフト類はROMに入っているので、電池が切れても消えることはない(データは消えるが)。スイッチを入れれば即座に使えるのが、移動しながら記事を書く記者たちには有り難かったのだ。
タンディ200やPC-8201は、今でもときどき使うことがある。レースの記事を書くときに、ラップタイプとサーキットの全長を元にした、予選やレースの平均速度を算出する必要が生じるのだが、BASICで数行のプログラムを書いておけば、タイムを入れるだけで、すぐに平均速度を計算できるからだ。