• 1996年2月の日記(目次)


    2月01日 2月02日 2月03日 2月04日 2月05日 2月06日 2月07日 2月08日 2月09日 2月10日
    2月11日 2月12日 2月13日 2月14日 2月15日 2月16日 2月17日 2月18日 2月19日 2月20日
    2月21日 2月22日 2月23日 2月24日 2月25日 2月26日 2月27日 2月28日 2月29日

    その日暮らし日記へもどる。


  • 96年2月1日〜10日
  • 2月1日(木)
     体調悪し。朝いちど起きるが、昼前から午後3時まで寝てしまう。夜、日経の
    コラムを書いて送る。
  • 2月2日(金)
     夕方、六本木まで、ディズニーのフルCGアニメ「トイストーリー」の試写を
    見に出かける。CGだなどということはすぐに忘れてしまうほど、ストーリーの
    テンポが早い。また、観客に対するくすぐりやペーソスなどもあり、実にうまく
    できている。3月20日公開だとのことだが、公開されたら家族を連れて、もう
    いちど見にいこう。やはり映画は脚本段階で練られていないとダメだよな……と
    実感。
  • 2月3日(土)
     節分。夕食時に煎り豆とイワシ食べたあと、カミサンが柊の枝にイワシの頭を
    指して玄関に飾る。ずっと資料読み。
  • 2月4日(日)
     日経のイラストを描いてFAXモデムで送信。
     夕方、大泉学園の書店に資料本探しに出かけ、喫茶店でノートパソコンを使っ
    て原稿書き。帰宅後、読書。ウィルス(コンピューターウィルスにあらず)関係
    の本を集中的に読んでいるところ。
  • 2月5日(月)
    「まんが一太郎Ver.6.3入門」のネームを作画担当の、くまの歩に渡す。今日、
    明日中に残りをアップしなければ……と思いつつ資料本を読んでしまう。いつ書
    けるのかわからない小説用の資料なのだが、目先の仕事よりも、資料を読みなが
    ら、頭の中でストーリーをいじっているあいだが一番たのしい。困ったものだ。
  • 2月6日(火)
    「まんが一太郎Ver.6.3」の追い込み。深夜、車でファミレスに出かけてネームを 入れる。途中で急いでいるダンプに煽られて恐かった。
  • 2月7日(水)
     仕事は上に同じ。
  • 2月8日(木)
     小説雑誌に連載するコラムにかかるが、文字数が決まっているため、削るのに時
    間がかかる。「ネットワークス」最終号に掲載される対談の原稿がメールで到着。
    それに手を入れる。
  • 2月9日(金)
    ★Yahooが真っ黒!「暗黒の木曜日」
     アメリカ東部時間2月8日午前11時、クリントン大統領が、議会を通過した電気
    通信法の改正法に署名し、発効。ポルノなどのホームページへの掲載などを不可と
    する条文があることから、検閲を招くとパソコン通信、インターネット業者、ユー
    ザーが反発。Yahooは抗議の意味を込めて画面を真っ黒に。また1500以上のホーム
    ページが同様の措置をとったとのこと。コンピュサーブ、OLTなども憲法違反で政府
    に対する訴訟準備を開始したとか。コンピュサーブのJapan Forumでは、「一人の親
    として子供にネットを通じてポルノを見せるのは嫌だが、アンクル・サムの時代に
    戻るのも嫌だ」という意見があった。これが民主主義や人権を大事にするアメリカ
    国民の代表的意見ではないだろうか。
  • 2月10日(土)
     2月10日深夜、ニフティサーブのFCOMICで、漫画家の坂口尚さんが、昨年の
    暮れに亡くなっていたことを知り、ショックを受ける。以下は、FCOMICに書い
    たコメント。
      *****
     坂口さんが亡くなったって、ホントなんですか……。うわあ、ショックだな
    あ……。
     ぼくは高卒直後にアシスタントを半年ばかりやったあと、漫画の編集プロダ
    クションに勤務していたことがあるんですが、坂口さんがアニメから漫画に転
    向したばかりの頃で、そのプロダクションからの仕事もたくさんあったことか
    ら、よく原稿取りにいきました。原稿取りにいくだけでなく、ハンマー坂口と
    いう名前で「プレイコミック」にアクション漫画を連載していたときは、締切
    がきつくなって、何度か泊まり込みで手伝いにいきました。
     手伝いといっても、坂口さんの原稿というのは、坂口さんが、ほとんど一人
    で描いてしまうため、ベタとホワイトの仕上げくらいしかありませんでしたが。
     また、消しゴムかけもほとんどありません。ネームは原稿用紙と同じ薄手の
    模造紙にとり、そこに、もう本当に簡単な鉛筆のあたりだけが入っていて、そ
    の上にもう1枚別の模造紙を重ね、そこにいきなりペン入れしてしまうので、
    鉛筆の下絵もなく、消しゴムも不要だったわけです。枠線のあたりで入ってい
    る鉛筆線のはみ出たのとか、集中線を頼まれたところに自分で入れた鉛筆のあ
    たりを消すくらいのもので、原稿がとてもきれいでした。
     しかもスピードが早い。アニメをやっていたせいか、Gペンでスラスラ、ダ
    ッダッと描いてしまうんです。鉛筆の下絵などあってなきがごとしで、いきな
    りペン入れしてしまい、しかも決まっている。その仕事ぶりを目にしたとき
    は、それまで知っていた漫画の描き方の常識をくつがえされたようで、ショッ
    クを受けたものです。ぼくが19歳のときでしたが、世の中にはとんでもない
    人がいるものだと、心の底から思ったものです。
     講談社から出た名作漫画シリーズの1冊である「トム・ソーヤの冒険」など
    は、本のカバー、見返しの原稿をカラーで描いてもらったんですが、これがア
    クリルペイントを重ね塗りした重厚な油絵のようなタッチの絵で、しかも拡大
    率が2倍くらいと大きいこともあって、そのまま額に入れて飾っておきたいよ
    うな絵でした。70年頃の名作漫画の豪華本の編集をしていた関係から、当時
    の名作漫画の原稿などもほとんど見ていたのですが、どのカラー原稿も、ペン
    入れしたものに水彩絵の具で色をつけたものがほとんどで、ペン入れなしで筆
    だけで描かれた坂口さんのカラー原稿は、異色の存在でした。絵の具がたっぷ
    り重なっているため、ずしりと重い原稿でもありました。
     その後、坂口さんは、虫プロ商事の「クレオパトラ」の描き下ろしや、「ぼ
    くらマガジン」の「ウルフガイ」の連載などで忙しくなり、ぼくの友人たちが
    助っ人に通っていたので、何度か仕事場に遊びにいったことがあるのですが
    (「クレオパトラ」は「COM」の編集部に缶詰状態で描いてました)、それ
    以後は、お会いする機会がなくなってしまいました。
    「石の花」などを見たときは、ああ健在なんだ、と嬉しがったりしていたので
    すが……。
     1970年に、大阪万博の子供向け公式ガイドブックの編集を、講談社の別
    館に缶詰になってやったことがあるのですが、このときは坂口さんも一緒に缶
    詰になって、まるまる2日以上寝ないで、ぼくが説明文を書くかたわらで、そ
    の文章につけるカットの絵を坂口さんが描いてくれたなんてこともありました。
    シーラカンスの絵なんてのも、資料も見ないで、下絵もなしに、スラスラと描
    いてしまうのに、もうビックリでした。
     漫画家になろうという「野望」を胸に上京したものの、その初期の段階で、
    坂口さんのような人を間近に見てしまったため、自分の才能のなさに嫌気がさ
    し、真剣に、漫画家になるのはあきらめようかと考え、モヤモヤしながら編集
    プロをやめ、パチンコで生計を立てたり、芸能プロの使い走りをしていたこと
    もありました。
     ぼくは最近、漫画の世界から敵前逃亡していますが、やはり早い時期に坂口
    さんみたいな人と出会い、自分の才能の限界みたいなものを早いうちに見切っ
    てしまっていたことも関係しているんだと思います。ぼくはどちらかというと
    才能なんてものには無縁。根性で漫画家になったクチで、石にしがみつくよ
    うにして、なんとかヒットと呼ばれるような作品も出せたのですが、そこには
    やはり限界というものがありました。どこかで「俺は天才なんだ」といった自
    信、過信を持つことも、この仕事には必要なんですが、坂口さんはじめ、たく
    さんの天才を知っていたがために、自分のレベルというものもよくわかってし
    まい、それもできませんでした。生活のことなどもありますので小賢しい企画
    優先の作品で生き延びてきましたが、ぼくの最大の欠点は、漫画家として不可
    欠な「絵の魅力」に欠けていることでした。「わかりやすい絵」なら描けそう
    だったので、そちらを優先して情報漫画や入門漫画を手懸けてきたのが本当の
    ところです
     ああ、それにしても残念だなあ……。いい仕事がまだまだたくさんできただ
    ろうに……。心からご冥福をお祈りします。


  • 96年2月11日〜20日
  • 2月11日(日)
     資料読みとコラム、漫画のネームが重なって仕事が進まない。武蔵関まで自転
    車で出かけ、喫茶店でノートパソコンを広げて仕事。
     ニフティサーブのFCISで、コンピュサーブ専用ソフトWinCIMがコンピュサーブ
    のWebサーバー経由だとうまくつながらないとの報告があり、原因を調査。こちら
    もディスク版のWinCIM2.01をインストールすると同じ症状が出る。問題はWinsock
    かCID(CompuServe Internet Dialer)にあるらしい。コンピュサーブのNetlauncher
    フォーラムに入ると、同じトラブルに遭遇した人たちが大勢いた。どうやらディ
    スク版のWinCIM2.01にだけ発生する問題らしく、コンピュサーブから改めてダウ
    ンロードすると無事に動く。コンピュサーブでは、新しいディスクの無料配布も
    開始した。このトラブルに遭遇した人は、コンピュサーブで「GO REPLACE」して
    下さい。コンピュサーブのホームページにも情報があります。
  • 2月12日(月)
     ファミレスをハシゴしながら漫画のネーム。夜、「日経」のコラムにつけるイ
    ラストをあげてFAXモデムで送信したあと、来月から小説雑誌で連載が始まる
    コラムの見本原稿を2本書きあげ、一太郎で編集し、FAXモデムで送る。
  • 2月13日(火)
     ニフティサーブの機関誌「オンライン・トゥディ・ジャパン(OLTJ)」連
    載中の本家「ただいまアクセス中」の原稿を書いてメールで送る。第61回目だそ
    うで、満5年を突破したことになる。「OLTJ」は4月号から購読方法が変わ
    ります>購読者の皆様。
  • 2月14日(水)
     ファミレスで漫画のネーム。『海は涸いていた』(白川道・著、新潮社)を読
    みはじめたら止まらなくなり、眠気をこらえて完徹。すごい小説だけど、同時に
    嫌な小説。封じ込め、忘れようとしていた昔のことを思い出してしまったから。
  • 2月15日(木)
     夕方、南青山のプラネットPRへ。マールボロのモータースポーツ部門やアイ
    ルトン・セナ財団の日本での広報活動をしている会社で、ここでフェラーリの96
    年用新型マシンF310の発表会をインターネットのライブで見る。といっても28.
    8kでは、コマ落としの静止画しか見られなかった。午後9時半になってからプラ
    ネットPRの方々と六本木のセンチュリーコートに出かけ食事。車で渋谷まで送
    ってもらい、井の頭線最終電車で吉祥寺へ。ここからタクシーで帰宅。
  • 2月16日(金)
     四谷のメキシコ料理店で「OLTJ」に掲載予定のニフティサーブ「本と雑誌
    フォーラム(FBOOK)」の座談会に出席。初代SysOpの武井さん、3代目SysOpの水
    城雄さん、現SysOpの江下さんらが参加。その他、モータースポーツ・カメラマ
    ンの西巻裕さん、翻訳家の野中邦子さんらも出席。
  • 2月17日(土)
     カミさんと雪の中を恵比須のテアトルエコーの劇場へ。同劇団の芝居を見る。
    知り合いの女の子が出ずっぱりで、その応援。温泉を舞台にしたドタバタ人情コ
    メディで、面白かったであります。松竹新喜劇の現代版みたいな感じだったけど。
     帰り道、新宿のヨドバシカメラでワコムのA5サイズのタブレットを購入。最
    近、コラム+イラストの仕事が増えてきて、マウスでイラストで描いていると能
    率が悪いため。喫茶店で「まんが一太郎6.3入門」のネームを終らせ、帰宅後、
    タブレットを試す。これなら、ぼくの簡単な絵柄のイラストには充分使えそうだ。
  • 2月18日(日)
     友人の作家、吉津實さんがくる。オアシスで書いた900枚の冒険小説の原稿を
    DOSテキストに変換し、VZエディターで編集したものを一太郎6.3でプリント。ペ
    ンティアム100MHzのWindows95マシンを使ったら、一太郎もスクロールが早い。
    レーザープリンターへのファイルの送り込みはすぐに終わったが、印刷の終了ま
    でに3時間近くかかる。その間に吉津さんは酔っ払い状態になり、清瀬の自宅ま
    で車で送る。深夜、日経のイラストをタブレットで描いてFAXモデムで送信……
    と思ったが、相手が紙切れなのか送信不能。明日、送ることにしよう。
  • 2月19日(月)
     いよいよ再開する「F1速報」連載のF1レース小説「龍の伝説」にかかる。
    骨組みはできているので、それに肉づけする作業。昨年までと違い、単行本化を
    意識して、書き込みしていいというので、じっくり書く。主人公の龍介が、鈴鹿
    サーキットで実施されるF1マシンのシェイクダウン・テストに参加するシーン
    から。この調子だと、龍介がレースをするまでに時間がかかるかも。連載再開は
    3月16日頃発売の「F1速報」オーストラリアGP号から。
  • 2月20日(火)
     本日発売の「プレジデント」3月号「超勉強法」の特集に出演中。英語の勉強
    法についてのインタビュー記事。ぼくの仕事場の写真もあります。
     午後、小学館の女性誌のインタビュー。パソコンのマニュアルの読み方につい
    て。最近、女性誌でもパソコン特集が多い。そのまま喫茶店めぐりをして「龍の
    伝説」の原稿執筆。深夜、「オンライン・トゥディ・ジャパン」のイラストをタ
    ブレットで描いてメールで送信。

  • 96年2月21日〜29日
  • 2月21日(水)
     終日パジャマ姿で「龍の伝説」の執筆。画面の背景を白にしてイラストを描い
    ていたせいか、目が疲れて、文字が二重に見える。画面もちらつき、文字が見え
    にくいので、秀丸エディターのフォントを大きくするが、画面のちらつきは、ボ
    ケはじめた蛍光灯のせいだと判明。目薬をさしても目の不調は直らない。しばし
    休憩。
     小学館から「まんが&図解Windows95らくらくパソコン新入門」のアンケート
    結果が届く。コンピューター専門出版社が出している入門書に比べると、読者の
    年齢層も幅広い(9歳〜82歳)。これが全国津々浦々まで配本される大手出版社
    の強みかもしれない。
  • 2月22日(木)
     保谷駅前に出かけ、「オール読物」「小説現代」を購入し、喫茶店で読む。
    「オール」は直木賞の選考発表。そのまま喫茶店で「F1速報」連載のF1レー
    ス小説「龍の伝説」の原稿。夜、自宅に戻ると「灼熱の走路」を読んでくれた某
    出版社の編集者から、長編小説を書かないかというお誘いの電子メールが届いて
    いる。ネットワークを舞台にした作品とのことだったが、すでにネットワークを
    テーマにした小説は準備中なので、別に温めていた長編小説のプロットを送る。
  • 2月23日(金)
     明け方、「龍の伝説」2回分を送る。昼過ぎに起きてニフティサーブにアクセ
    スすると、昨夜の編集者から返事のメール。面白そうなので企画会議にかけてく
    れるとのこと。うまく行きますように。「日経」の連載コラムをあげてFAXモ
    デムで送信。
  • 2月24日(土)
     運動不足なので武蔵関の喫茶店まで歩いて出かけ、「龍の伝説」の続き。帰り
    に書店に寄り、新作の資料となりそうな本を購入。
  • 2月25日(日)
     夕方、渋谷に出かけ、「かに道楽」でニフティサーブのFCOMICRE「原作会議室」
    のオフライン。幹事は「少年サンデー」などでお馴染みの七月鏡一さん。青年誌
    で活躍する梶研吾さん、少年雑誌の編集者なども集まる。七月さん、梶さん、女
    性映画監督の竹林さんと下北沢のバーで二次会。途中、「月刊少年ジャンプ」で
    レーシングカートの漫画を連載している近藤さんも合流し、午前4時半まで飲む。
  • 2月26日(月)
     正午すぎに起きてニフティサーブにアクセスすると「日経」の担当者から「原
    稿が届いていない」のメール。パソコンからFAXモデムで送ったつもりが、ビ
    ジーか何かで未送信になっていて、それに気づかずパソコンのスイッチを切って
    しまっていたらしい。あわててパソコンを起動し、原稿を送る。
     午後10時から近所のファミリーレストランで「龍の伝説」について編集者と打
    ち合わせ。
  • 2月27日(火)
    「龍の伝説」の第1回目の直し。深夜にFAXと電子メールで送信。
  • 2月28日(水)
     喫茶店をハシゴして「龍の伝説」の直しと「まんが一太郎6.3入門」の追い込み。
    途中、書店で本を購入してしまい、「アイデアの捜し方」(阿刀田高著)をつい読
    んでしまう。
  • 2月29日(木)
     喫茶店とファミレスをハシゴしながら仕事。


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