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1997年8月下旬の日記
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8月21日
睡眠1時間で午前6時半に起床。カミサンに最寄り駅まで送ってもらい、新宿発8時05分の成田エキスプレスで成田空港へ向かう。今日から10泊12日の予定で、F1ベルギーGPを皮切りに、ヨーロッパをまわる予定。片山右京選手がゲストパスを用意してくれることになり、F1レース小説の取材も兼ねて単独で出かけることにしたのだが、ミハエル・シューマッハー人気で隣国のドイツから観客が大挙して押しかけるせいか、スパ・フランコルシャンの周辺では、まるで宿がとれない。しかたがないので、宿と足が確保されているF1観戦ツアーに参加することにした。どうせツアーに参加するのなら、将来書きたいと思っている国際トラベルミステリーの取材も兼ねてやれと、あまり体験したことのない添乗員つきの観光がついたツアーを選んだのであった。
成田到着は午前9時27分。9時40分の集合時間には充分に間に合い、ツアー参加者と顔合わせ。グループの中にはニフティサーブ・オートレーシング・フォーラムで知り合った会員同士の新婚さんも重いパワーブックを担いで参加していた。
午前11時40分に成田を飛び立ったKLMオランダ航空のボーイング747ジャンボ(後ろ半分が荷物室になったタイプ)で一路アムステルダムのスキポール空港へ。この数日、満足に寝ていないせいで、機内ではビールとワインを呷り、爆睡モードに突入。
スキポール空港では乗り換え待ちの間に持参したサブノートパソコンとGSM方式のデジタル携帯電話でニフティサーブにアクセス。メールのチェックをして返事を送信。そこからはサーブ300という小型機でベルギーの首都ブリュッセルへ。
ブリュッセルではホテルでコンピュサーブ・モータースポーツ・フォーラムのベルギー人メンバーと待ち合わせし、市内の中心地までクルマで食事に連れていってもらう。相手は3日ほど前に、アメリカで大人気のストックカーレース、NASCARウィンストンカップ・シリーズを2戦連続で見てきたばかり。食事をしながら、いかに最近のF1レースがつまらなくなったかで盛り上がる。ただし、自分と同じ国籍のドライバーが活躍すれば面白くなるだろうという点では意見が一致。レースファンなんて身勝手なものである。
宿泊したホテルはシェラトン系で、部屋には電話機以外にモデム用のRJ-11ジャックがついている。これでニフティサーブにもコンピュサーブにもブリュッセル市内のコンピュサーブ・ネットワークのアクセスポイントから簡単にアクセスできた。
8月22日
今日は午前中がブリュッセルの市内観光。王立軍事博物館で軍用機や戦車の実物を見たあと、市内中心地で有名な小便小僧などを見物し、名物のベルジャン・ワッフルを食べた後、レストランでランチ。名物のムール貝がどっさり。量が多くて、とても食べきれない。
午後はバスでドイツのアーヘンへ。ベルギーGPの会場となるスパ周辺ではホテルが取れず、50キロほど離れたアーヘンからスパに2日間通うことになっている。
ホテルでチェックインを待つ間にGSM携帯電話とサブノートPCでニフティサーブにアクセスし、ベルギーGP1日目フリー走行の結果を引っ張り出し、ホテルのFAXに転送したものをコピーしてもらってツアーのメンバーに配布する。
夕食の時間までは部屋に籠もり、持参したカシオペアで通信の実験。GSM携帯電話でニフティサーブにアクセスしようとしたが、モデムカードが「ATV0」モードになっていて、コマンドの返事が「OK」でなく「0」になってしまう。このおかげで自動モードでは通信できず、マニュアルモードでやっとこさニフティサーブにつなぐ。もっともカシオペアにAC電源がつながっていないとカードモデムが使えない。電流の容量不足でシャットダウンしてしまうからだ。乾電池で通信できないなんて、モバイル携帯端末の名前が泣いてしまうよ、きっと。
8月23日
午前5時にモーニングコールが鳴り、6時に朝食を取って6時40分にはバスでホテルを出発。ベルギーGPの会場スパ・グランコルシャンまでは、ふつうなら1時間もかからずに行けるのだが、シューマッハー人気で交通渋滞が予想されるため、朝早い出発となった。ところが交通渋滞は皆無。ドイツ人ファンはキャンプをする人が多く、すでに前日までにサーキット周辺のキャンピングエリアに入ってしまっているらしい。
チケットを持っているツアーのメンバーは、さっさとサーキットに入ってしまうが、こちらは片山右京選手が用意してくれたゲストパスを受け取る必要がある。受け渡し役を頼んであったイギリス在住のレースカメラマン、ヒロ松本さんに携帯電話で連絡を取り、パスを持って迎えにきてもらい、なんとかパドックに入ることができた。
バスが早く着きすぎたため、ミナルディのモーターホームでは、まだメカニックたちが食事中。それが終わるまでパドック内をブラブラ。
午前のフリー走行は、コース脇で見るものの、午後の予選はモーターホーム脇にテントで設営されたホスピタリティブースでテレビ観戦。GSM携帯電話とサブノートPCで、ニフティサーブ・オートレーシング情報フォーラムに速報を入れる。ベルギーくんだりまできて、なんでテレビ観戦しないといけないんだ……と疑問を抱きつつ……。
昼食はミナルディ・チーム名物のパスタがスターターでメインはチキン。イタリアのワインを飲みながらの食事で美味であった。食後はこれもミナルディ名物のエスプレッソを飲む。ホスピタリティブースに、エスプレッソとカプチーノのマシンが備えつけられているのだ。
予選終了後、パドックで日本人記者たちと一緒に右京選手を囲んで予選の話を聞いていると、突然、ホスピタリティテントから大声が。あわてて駆けつけると、スタートしたばかりの国際F3000レースでポールからスタートした日本でもおなじみのトム・クリステンセンが高速コーナーでクラッシュしたシーンが、テレビでリプレイされていた。コース上に跳ね返されたクリステンセンのマシンを避けようとした後続のマシン同士が接触し、コースは一瞬のうちに多重クラッシュによるマシンの墓場と化している。
クリステンセンは意識を失っているようで、マシンから引っ張り出された後、コース上に横たえられ、そこでレーシングスーツを切り裂かれてブリーフ1枚の姿にされている。かなり危ないのではないかと思ったが、「喉を切開していないし、心臓マッサージもしていないから大丈夫だよ」と右京選手が解説してくれる。それに加えて「俺もいつあんな目に遭うかわからないし、パンツだけはきれいなのを履いておかなきゃ……」。冗談まじりではあったが、これもF1ドライバーの本心だろう。
この赤旗中断でレースは1時間遅れてスタートしたが、こちらはその間に、『F1速報』の版元ニューズ出版から発売予定のカシオペアのムック用の写真モデルをつとめる。
ホテルに戻ったあとは、新婚さん2組とアーヘンの街に出かけて夕食。午後7時と時間が早かったせいか、夕食時間の遅いあちらの生活習慣のため、まだレストランが開いておらず、街のなかをウロウロ。やっと開いていたレストランを見つけたらイタリア・レストランだった。ドイツ語のメニューは読めないので、シェフのお薦め料理らしいのを5種類オーダーし、5人でシェアして食べる。極めて美味であった。
8月24日
今日も5時起床、6時40分ホテルを出発のハードスケジュール。しかし今日も渋滞はなし。パドックに入るとマールボロ広報のアニエス女史に遭遇。フェラーリのモーターホームに拉致されて、これも有名なフェラーリのエスプレッソをご馳走になる。
ベルギーGPのウォームアップまではホスピタリティテントでテレビ観戦。高木虎之助選手の出場したポルシェカップはテントとコースを往復して観戦。ポルシェカップには、このレースに命と財産をかける40歳、50歳の大ベテランが多く、ふつうのチューニングのポルシェに乗る高木選手がいくら頑張っても、トップグループに食いついていくのは無理というものだろう。12番手でスタートし、序盤で8位まで上がるが、途中でグラベルに飛び出して順位を落とし、結局11位でフィニッシュ。こんなものだろうなあ。
せっかくのチャンスなので、F1の決勝レースはミナルディのピット内で観戦。決勝レース直前、スパは豪雨に襲われたが、その瞬間、ピット内にいたゲストたちは全員がニッコリ。エンジンが非力なミナルディにもチャンスが出てくるからだ。とくに右京選手は雨の中なら10番手前後のタイムを出していた。入賞も夢ではないはずだ。
ところがレースのスタート直前に雨が止み、2周のペースカーに先導された走行の後、レースはスタート。コースはどんどん乾き、インターミディエイトという軽い雨用のタイヤを選択するギャンブルに出たミハエル・シューマッハーがトップに飛び出して、そのまま逃げ切ってしまった。
雨が止んだ後のピットのなかは蒸し風呂状態で、暑さに耐えかねてピットから飛び出し、ラ・ソース・ヘアピンのイン側でレースを見る。頭の上には観客用の大型テレビスクリーンがあるので、なんとかコースの様子も把握できた。
決勝レース後は、右京選手への挨拶もそこそこに、バスの待つ駐車場へ急ぐが、駐車場から外に出るバスやクルマが渋滞し、結局2時間ほど駐車場で待機。そのあともブリュッセル方面に向かう高速道路はピクリとも動かない渋滞だったため、いちどドイツ側に戻り、別の高速道路でブリュッセルに戻る。ブリュッセル到着後は、疲れていたこともあってホテル内のレストランで食事。明日も起床は5時なので、早々にベッドに潜り込む。
8月25日
午前5時に起床し、朝食のパンやジュースが詰まった箱を手にバスに乗ってブリュッセルの空港へ。午前7時発のアリタリア機でローマに向かう。ローマでは中華料理の昼食をとった後で市内観光。ここからは国際トラベルミステリーの取材モードに突入。ガイドさんの説明や観光名所での日本人観光客の生態に目を配りながら、バチカン市国やトレビの泉をまわる。あちこちで日本人観光客がジプシーの子供たちの標的になっていた。
夕食はホテル近くのレストランでパスタとピザ。食後、ホテルのバーで添乗員さん、ツアー参加者の独身女性組と一緒にナイトキャップ。部屋に戻ったとたん、泥のように眠っていた。
8月26日
朝早く目が覚め、シャワーを浴びようと浴室で裸になったついでに下着の洗濯をしてしまう。ついでなのでポロシャツまで洗濯し、はっと気がついたらシャワーを浴びるのを忘れていた。
午前中は地下鉄で「真実の口」やスペイン広場をまわり、再びパスタとピザで昼食をとったあと、ショッピングをするツアー一行と別れてホテルに戻り、部屋で原稿書き。ローマのコンピュサーブ・ネットワークのアクセスポイント経由で原稿を送信し、夕食はツアー参加者の希望もあって日本食レストランに出かけることにする。ところが最初に行った店は消滅し、2番目の店は夏期休業。3番目の店でやっと和食にありつく。ここでは女性陣が冷酒を頼んで気勢をあげていた。
あちこち歩き回って疲れたため、ホテルへはタクシーで帰還する。
8月27日
再び早朝にホテルを出発。ローマ空港からアリタリア機でパリのシャルル・ドゴール空港へ。荷物の出てくるのを待っていると、ガラスの向こうに見たことのある女性の顔が。91年と92年に、仕事の取材でパリに来たときにお世話になったガイドさんだ。しかもこの女性が今回のツアーのガイドさん。パリは8回目だが、同じ人に3回もガイドされるなんて、不思議なものだ。
市内のレストランでランチをとったあと、パリの市内観光。パリは何度も来ているが、名所巡りは2回くらいしかしていない。お定まりのコースでノートルダム寺院の中を見たあと、シャイヨー宮殿からエッフェル塔をバックに記念撮影。ここでフランスのテレビ局チャンネル2から取材を受け、何度もエッフェル塔を背景に、記念撮影のポーズを取らされる。円が急落しているらしいが、「円安にも関わらず、海外旅行熱の衰えない日本人」というようなニュースの素材にでもなりそうだ。
ホテルにチェックイン後、ホテルで待ち合わせたニフティサーブ「本と雑誌フォーラム」のSysOp江下さんに案内され、ふたりで南仏家庭料理のレストランで夕食。大好物のテリーヌが前菜に出たため、これを食べ過ぎて満腹になり、タクシーでホテルに帰る。部屋に着いたとたん、ジーンズとシャツを脱いだだけでベッドに突入。そのまま朝まで爆睡。
8月28日
今日はパリのフリータイム。ツアー一行と一緒にエッフェル塔に上り、オペラ座近くのラーメン屋さんで昼食。そのあとはショッピングのため各自自由行動。新婚さん一組をシャンゼリゼに案内し、ディズニーショップでショッピングしたあと、フーケツでお茶。時間が余ったためルーブル美術館に出かけ、「モナリザ」や「ミロのビーナス」などの有名どころだけ駆け足で見てまわり、フォーラム・デアールをうろついてから地下鉄でホテルに戻る。
夕食はバトー・ムッシューの船上ディナー。ツアー一行は明日、日本に戻るので、ホテルに戻ったあと、バーでお別れ会。
8月29日
ホテルからバスで空港に向かうツアー一行を見送り、再びホテルまで来てくれた江下さんと時間つぶしにサン・ミッシェルのカフェで朝食を食べ、パリの北駅へ。ぼくは、ここからは単独でユーロスターに乗り、ロンドンに向かう。ユーロスターの前で江下さんに、将来、国際トラベルミステリーを書いたときのための著者近影用写真を撮ってもらう。
ユーロスターは食事つきのファーストクラス。パリ北駅を出発後、20分ほどで時速300kmに。ランチは前菜がパテ、メインがアヒル。食後のコーヒーを飲んでいると、早くも列車は英仏海峡のトンネルへ。まわりが暗くなったら、ついうつらうつら。目が覚めたらイギリスに入っていた。
ロンドンのウォータールー駅でパスポートコントロールを通り、タクシーでマーブルアーチのホテルへ。チェックインをすませると、すぐに地下鉄を乗り継いでレスタースクエアにあるモーターブックスという自動車専門書店へ。ここでレース関係の書籍を購入し、日本への発送を依頼。近くのピカデリーサーカスからオックスフォードを抜け、徒歩でホテルに戻る。
ホテルに戻ったとたん、猛烈な眠気に襲われてベッドで夕寝。目が覚めると午後9時で、空腹を覚えてホテル内のレストランでインド料理を食べる。部屋に戻ったあと、ロンドンのコンピュサーブ・ネットワークのアクセスポイントにPPP接続し、ロンドン情報をチェック。目的は日本料理店だが「Yahoo Japan」でロンドン市内の日本料理店のリストを発見。ついでにガイドブックも調べ、明日の午後はピカデリーサーカス周辺の日本料理店、日本食品店などを見てまわることにする。これも日本人観光客の生態観察のため。
8月30日
ホテルで朝食をとったあと、コンピュサーブのイギリス人メンバーとホテルでコーヒータイム。彼はレース関係の仕事もしており、東京に来たときには有楽町のガード下の一杯飲み屋に案内したことがある。彼に午前中はシャーロック・ホームズ博物館とマダム・タッソーのロウ人形館に行くつもりだと話すと、ロウ人形館は、夏休み最後の週末だから、きっとすごい行列になっているはずだという。早く出かけて並んだほうがいいという彼のアドバイスを聞いて、すぐにホテルから徒歩で、まずはシャーロック・ホームズ博物館に。昔は100番地までしかなかったベーカー街だが、その後、ホームズの住居とされていた架空の201b番地まででき、そこに商魂たくましい人が博物館を作りあげたもの。
狭いアパートを改造したもので、小人数しか入れないため、入口で少し待たされる。入場料は5ポンド(約1000円)。訪れていた人の大半は日本人だった。
こういうところに来たらミーハーにならなければ損である。記念撮影用のシャーロック・ホームズ愛用の帽子をかぶり、パイプを手にして居合わせた日本人観光客に写真を撮ってもらう。4階はギフトショップになっていて、ここでミステリー作家の太田忠司さんへのおみやげにネクタイを購入。名古屋在住でシャチホコ模様のネクタイを愛用する洒落のわかる太田さんなら、きっと喜んでくれるに違いない。
近くのロウ人形館に移動すると、こちらはやはり長蛇の列。3時間待ちだとのことで中を見るのは断念し、地下鉄を乗り継いでピカデリーサーカスへ。ここでSOHOやカーナビー・ストリート周辺をウロウロし、ストリップ劇場やポルノショップに連れだって入る日本人男性観光客たちの様子をさりげなく観察する。このストリップ小屋が並ぶ通りの延長に数軒の日本食レストラン(ラーメン店など)があり、そのうちの一軒で冷やし中華を食べる。食後、その数軒隣にあったF1ショップを見物し、ピカデリーサーカスから、こんどはピカデリー・ストリート〜ボンド・ストリートという高級ブランド店の並ぶ経路を通って、大きなブランド店の袋を持って歩く日本人の女性観光客たちの様子を観察。
いちどホテルに戻り、また昼寝。夕食はオックスフォード・サーカス近くの日本食レストランで刺身、天ぷら、焼き鳥の定食。コンビニで寝酒のビールを買ってホテルに戻る。
8月31日
今日は、午前9時55分ヒースロー発アムステルダム行きの飛行機に乗る必要があるため、昨夜のうちにテレビのリモコンで、午前5時半に目覚ましテレビのセット。おかげでセットした時刻に、テレビについたラジオチャンネルから流れ出した大音響で目が覚める。音量を下げてテレビにチャンネルを合わせると、「ダイアナの死をバッキンガムが確認」というスーパーが。パリで事故に遭い、重体に陥っていたダイアナさんの死が確認されて30分後のことだった。最初は事情がわからず耳をダンボにしてニュースに耳を傾けたおかげで、目はすぐにバッチリ。パリで事故に遭ったこともすぐにわかったが、遺体が午後にはイギリスに戻ってくるという。もしもヒースローに戻ってきて、交通規制などがされたら、こちらが乗る飛行機に間に合わなくなるかもしれない……と、予定より早くホテルを出発することにする。
ところがロンドンの地下鉄は、日曜日は午前7時まで動かない。しかたなしにタクシーでヒースローまで行くが、ドライバーからも「ニュースを聞いたか?」と話しかけられた。
日曜日の早朝とあってか道路はガラ空きで、空港には30分ほどで到着。あとでわかったことだが、ダイアナ妃の遺体は、軍用空港に着いたとのことだった。
空港ではチェックインも始まっておらず、コーヒーとダニッシュで朝食をとりながら時間つぶし。売店で買った新聞では、まだ重体の記事が掲載されている段階だった。
ヒースローから乗ったボーイング767がアムステルダム空港に着陸直前、眼下に、昔、F1オランダGPが開催され、いまもF3世界一決定戦が行われているザンドフールト・サーキットが見えたので、あわててカメラのシャッターを切る。海岸近くのコースで、砂がコースに出ては、スピンするマシンが続出した……というエピソードを思い出した。
アムステルダムのスキポール空港から成田行きのジャンボに乗り換えて帰国。あわただしい旅行で、あっというまに終わってしまったのが、ちょっと残念ではありました。