私がマンガを描きはじめたのは12歳、小学6年生のときでした。マンガを読むのが好きで、絵を描くのも好きでしたが、同時に真空管でラジオやワイヤレスマイクも作る多趣味な小学生でした。当時の夢はエレクトロニクス系のエンジニアになることで、マンガは、あくまで趣味のうちでした。
「マンガ家になりたい!」と思うようになったのは、中学3年生の夏休みに読んだ石ノ森章太郎先生の『マンガ家入門』がきっかけでした。『龍神沼』をテキストに、マンガの構成や表現方法について懇切丁寧に解説した本で、多くのマンガ少年・少女のバイブルとなりました。
私もマンガの技術解説には大いに影響を受けましたが、それ以上に心に響いたのは、その前にあった石ノ森章太郎の半自叙伝の文章でした。宮城県の農村地帯に育った石ノ森先生は、中学生の頃からマンガの投稿をはじめ、「墨汁一滴」という肉筆回覧誌をつくり、高校生になると手塚治虫先生に呼ばれてアシスタントをするために上京し、同時期に「漫画少年」という雑誌でデビュー。高卒後は上京してマンガ家になり、寺田ヒロオ、藤子不二雄、赤塚不二夫の諸先生たちと一緒に伝説のトキワ荘に住んで……といった「サクセスストーリー」に影響され、高校には行かずにマンガの道に進みたいと思うようになりました。
私が小学5年生のとき、父が倒れて寝たきりになり、母が一人で働いて生計を立てていました。当然、暮らしは裕福ではありません。私も中卒で働いた方が、母も楽になるはずです。どうせ中卒で働くのなら、好きな道――つまりマンガの道に進みたいと思い込んだのです。
同級生が高校の受験勉強をしているとき、私は1本のストーリーマンガを描き、石ノ森章太郎のところに送りました。アシスタントにしてほしいという手紙のほかに、母にも同意書を書いてもらって送ったのです。
ところが、いくら待っても返事はありません。それもそのはずで、当時、石ノ森先生のところには、同じようなアシスタント志望、弟子入り志望のマンガや手紙が山のように送られていたとのこと。開封もしないまま段ボール箱に詰められ、天井に届くほどに積み上げられていたそうです(中学生の頃から石ノ森先生のお宅に通っていた ひおあきら&細井ゆうじ談)。
「いくらマンガ家になりたいといっても、いまどき高校くらい出ておかないと、マンガでうまくいかなかったときにツブシがきかなくなる」という親族一同の説得と資金援助を受けて高校に進みましたが、高校1年生になって早々に「ボーイズライフ」という雑誌の読者欄で、石ノ森先生を名誉会長に迎えたマンガ同人誌の会員募集広告を見つけ、応募しました(この同人誌の会長が ひおあきら、副会長が細井ゆうじでした)。
紆余曲折はあったのですが、なんとか会員になることができ、高1の終わりの春休み(1967年3月25日)には、ひおと細井の案内で、石ノ森章太郎、松本零士、久松文雄の諸先生のお宅を訪問しました。もちろん目的は、自作マンガを見ていただくためです。(色紙は松本零士先生に描いていただいたもの。日付入り)
評価はメロメロでしたが、ここでも私は「マンガ家になりたい」という意思を強くします。というのも、この日に訪ねた3人の先生は、いずれも新築されたばかりのキレイな家に住んでいたからです。倉庫を改造したボロ家に住んでいた私の目には、どのお宅も白亜の豪邸に見えました。
しかも、そのときの先生方の年齢は、石ノ森先生と松本先生が28歳(おふたりとも1938年1月25日生まれ)、久松先生は23歳でした。