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  • 1999年9月下旬の日記
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    09月21日
     目の調子が悪くて資料読みが進まない。今日の読書は『日本ホテル館物語』(長谷川堯/プレジデント社)。ちと帝国ホテルの歴史を調べるため。

    09月22日
     夕方、西武池袋線、地下鉄丸の内線経由で銀座へ。カレーうどんを食べてから帝国ホテルで開催された江戸川乱歩賞授賞式へ。その前に帝国ホテルの売店で帝国ホテルの歴史に関する本がないかと尋ねたが、品切れ中で、入荷予定はないとのこと。残念。パーティーでは大勢の人たちと挨拶。山陰地方の大学の先生になることが決まった豊田有恒さんから、遊びに来るよう誘われる。
     まだ歴史・時代小説の著作もないくせに、なんとなくWindows系パソコンやインターネットのお助けマン的な役割で入会してしまったインターネット歴史協会のメンバー、楠木誠一郎さん、風野真知雄さんと初対面のご挨拶。楠木さんとは学資保険や住宅ローンに関するシリアスな会話。
     鈴木輝一郎さんをツアーコンダクターに銀座に繰り出した文壇バー探検隊を見送って、薄井ゆうじさんと産経新聞文化部のAさんと一緒に近くのバニーちゃんのいるお店へ。薄井さんとは25年ものおつき合い。12時まで昔話を楽しみ、地下鉄丸の内線、中央線を経由して、例のごとく高円寺で下車。いつもの店でチロリとビールを飲んで買えるつもりが、弟子のH嬢が来週。すでにできあがってご機嫌のH嬢と2人で、さらに別の店に押しかけ朝までビール。結局、電車&タクシーで帰宅。

    09月23日
     昨日は飲み過ぎたせいか身体がだるい。途中で居眠りしながら終日資料読み。某社で進めていたインターネット関連本の企画を結局ことわる。

    09月24日
    『作家・ライター志望者のための電脳文章作法』(小学館文庫)に解説を書いてもらったAiboの飼い主でもある小川大樹さんが来訪。技術者のための某ホームページの取材を受ける。ラジオ少年からラジコン、ハム、マイコン、パソコン、パソコン通信と進んできた僕のホビー経歴を話しながら、科学や技術についての思いをあれこれ語る。
     写真撮影をするため仕事部屋に行くと、小学館からFAXが届いていた。「週刊文春」9月30日号の「ビジネス誌8誌が薦める『経済本』ならこれを買え」という特集で、「週刊ダイヤモンド」編集長が『作家・ライター志望者のための電脳文章作法』を第2位に挙げてくれていたとのことで、コピーをFAXしてくれたもの。坪井賢一様、ありがとうございました。しかし、「経済本」とは……(冷汗タラリ)。
     取材後、大樹さんと武蔵関のソバ屋で夕食をとり、吉祥寺に出て小さな飲み屋さんでビールとお酒のグラスを傾けながら小説についてのあれこれを語り合う。このところ体力的にも精神的にも疲れていたけど、ミステリー作家めざして頑張る大樹さんと話して、少しエネルギーを分けてもらった気分。午後11時過ぎ、吉祥寺で別れて帰宅し、ニフティサーブ「オートレーシング情報フォーラム」でF1ヨーロッパGPのリリース翻訳の手伝い。

    09月25日
     ずっと資料を読みつづけていて、もう目がガチャガチャ。夜遅くなると乱視矯正入りの老眼鏡をかけても効果なし。カミサンが通信販売で買ってくれた「健視ヘルプ」という栄養補助食品を飲みはじめる。効果があればいいのだが。といっても目の調子が悪い最大の原因は睡眠不足だってこともわかっているのだが……。

    09月26日
     自転車で外出し、喫茶店とモスバーガーをハシゴして、資料の内容をノートパソコンにメモしていく。自転車で全力疾走してゼエゼエしながら帰宅。午後9時からF1ヨーロッパGPの速報。雨のせいでレースは二転三転。こりゃ結果がわかっていてもテレビを見なければ。
     午後11時45分からフジテレビの録画中継を見て、リリースの翻訳を少し手伝った後、仕事に復帰。午前5時から眠い目をこすってスポーツi・ESPNでCARTのレースを見る。テキサス州ヒューストンのレースだけど、予選上位を獲得した服部尚貴は、あっというまに後退しちゃうし(その後リタイア)、モントーヤもトップを走りながら、スピンして止まっていたマシンにぶつかってリタイア。ここはコースの設定がよくないのか、レース内容が面白くない。で、トレーシーが優勝した。オーバルが得意だった印象が強いのに、今年はロードコースでも速いぞ。

    09月27日
     午後2時に起床し、ノートパソコンを背負って資料写しに出かけるが、足りない資料を探しに池袋のジュンク堂に出かけてしまう。大きな書店には欲しい本がいっぱいあるが、たくさん買うと腰に来るので必要最小限にとどめる。
     ジュンク堂の後は吉野屋で牛丼。最近、けんちん汁がメニューに加わったのがうれしい。食事後、保谷に戻って喫茶店で閉店時間まで資料読み。帰宅後もさらに資料を読む。今日は徒歩で出かけたので足が痛い。

    09月28日
     保谷駅前の喫茶店に出かけ、必要な資料を読み切った後、スポーツクラブに寄って一泳ぎ&ウォーキング。その後でファミレスにまわって架空戦記小説の本番にかかる。当分は原稿書きの毎日になる予定。

    09月29日
    「週刊小説」の連載コラム『パソコン言葉ちんぷんかんぷん』の原稿。今回が第91回目。残りは2回。当初、1年の予定で始まった隔週の連載は、いつのまにか4年近く。「浜の真砂は尽きじとも、世にチンプンカンプンなパソコン用語のタネは尽きまじ」ってとこか。
     深夜、ケーブルテレビの「アサヒニュースター」で日本の原子力エネルギーに関する座談会を見る。アフリカのガボン共和国で発見された12〜16億年前の天然原子炉の痕跡の話が面白かった。
     そのあと、NHK‐BS2でアラン・ドロンとジャン・ギャバンの映画「暗黒街の二人」を見る。アラン・ドロンの映画は、ほとんど見ているはずだが、この映画は未見だった。

    09月30日
     昨夜、原子力エネルギーに関するテレビ番組を見たばかりだというのに、東海村のウラン燃料工場で臨界事故発生。でも、なぜ? どうして? と目が白黒。
     日本で使われている軽水炉用のウラン燃料は、六フッ化ウランを硝酸に溶かした後、3〜4%まで濃縮してパウダー状にしたものをペレットに焼き固めるはずで、濃縮とはいっても3〜4%の濃度では臨界には達しないはず。昨夜、テレビでやっていた天然原子炉も、天然ウランが大量にあったから地表で臨界が起きてしまったものだ。
     臨界とはウランの場合でいえば、ウランが核分裂を起こしたときに発生する中性子が、また別のウランにぶつかって核分裂を起こさせ……と連鎖反応を起こしていく状態をいう。
     周辺のモニタリングポストの数値は、一時的に上昇したが、後は下がっているという。2kmとか7km離れたポストで検知されたということは、工場から放射性物質が飛び出したということだろう。しかし、テレビで放映された工場の空撮映像では、爆発や火災の痕跡はない。空調のダクトなどから放射性物質が飛散したものと考えるのが妥当のようだ。
     ところがテレビを見ているうちに、一時的だと思われた臨界が、なおも持続しているというではないか。しかも、製造していたのは軽水炉用ではなく、大洗にある高速増殖炉「じょうよう」で使う18%の濃度のウラン燃料だという。こんなところで高濃縮ウラン燃料の製造もしていたっての?
     JOCという会社を知らなかったので、検索エンジンで確認すると、住友金属鉱山の子会社。信用取引で住友金属鉱山の株を売りに出せば、きっと儲かるぞ……などとチラリと不謹慎なことを考える。
     しかしテレビを見ていると、事態はますます深刻に。現場で被曝(被爆ではありません)した人たちは、ヘリコプターで千葉の放医研へ。典型的な放射線障害だ。臨界は止まらず、半径350メートル以内の住民には非難勧告が出され、夜には半径10キロ以内の人たちに屋内待機の勧告。自衛隊の化学防護隊も茨城に向かうが、中性子が出ている状態では現場に近づけるはずもない。
    「放射線防護服がない」との報道に、インターネットのあちこちで、「日本にはたくさんの原子力施設があるのに、なぜ放射線防護服がないのか」という疑問が飛び交っていたが、放射線は、何でも透過してしまいます。γ線は鉛で防げるが、中性子については打つ手なし。ただし臨界さえ止まれば中性子は出なくなるはず。
     その臨界が止まらない。爆発を起こさないのは、容器が密閉されていないからだろう。密閉容器だったら、最初の臨界の段階で爆発してウランが飛び散り、そのせいで臨界もストップするはずだからだ。今回の事故は、どうやらタンクの周囲の冷却水が、中性子を跳ね返し、タンク内に戻った中性子が再びウランにぶつかって核分裂を起こしているらしいとのこと。深夜になってからもずっとケーブルテレビの生中継で、科学技術庁で断続的に行われる科技庁とJCO社員の記者会見を追い続ける。
     タンクのまわりの水を抜くためJCO社員が、バルブをゆるめに行くという。その話を聞いてビックリ。まさに決死隊ではないか。記者会見を聞いていると、2人ずつコンビを組んだ社員が交代で建屋に近づき、作業を開始。1組が2〜3分に制限されているとはいうが、その社員たちが戻った後の中性子とγ線の線量計の数字を聞いているうちに、もう涙が出そうになる。
     同じ会社の社員のミスのためとはいえ、場合によっては生命を縮めるような作業をしなくてはならないのだ。戦前の日本や、いまの中国あたりなら、救国の英雄扱いされそうな行為でもある。第二次世界大戦中、ドイツ海軍が沿岸に撒き散らした機雷に悩まされたイギリスでは、1人が1つのネジをゆるめては、別の人と交代し、運が悪い人が爆死する……というルシアン・ルーレットのような方法で、機雷の分解法をマスターしたというが、そんなエピソードを思い出してしまった。
     だが、バルブをゆるめても水の抜けが充分ではないという。そこでついに配管を破壊。これが功を奏し、中性子レベルはゼロに。
     時刻は午前6時をすぎていたが、他のニュースでも中性子レベルがゼロになったのを確認し、やっと一安心して布団に潜ることにした。いかに尻拭いのためとはいえ、18人のJCO社員を思うと、もう言葉がない。


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