• その日暮らし日記へもどる
  • 表紙へもどる

  • 2000年02月下旬の日記
    21日 22日 23日 24日 25日 26日 27日 28日 29日

    【END】

    02月21日 デイトナ500で徹夜だ


     ああ、昨日(今朝)は、結局、仕事をしながらスカイパーフェクトTVの「GAORA」で生中継されたNASCAR Winston Cup Series 第1戦「デイトナ500」をゴールまで見てしまった。
     レースは大きな事故もなく、そのせいで平均速度も記録破りを続けていたが、どうせ下駄を履くまでわからないのがアメリカンレース。やっぱりラスト8周になってクラッシュが起き、ペースカーが入ってフルコース・イエロー。これでトップを走っていたジョニー・ベンソンは、ペースカー・ランニングのままチェッカーになると思い込み、ここで早くもガッツポーズ。
     ところが、やはりアメリカンレースなのである。ストックカーレースなのである。NASCARなのである。残り3周で再びグリーンフラッグが振られ、超スプリントレースがスタート。これで2位につけていたデール・ジャレットが、トップのベンソンをパス。ベンソンは、トップグループの縦隊の列からはみ出したため、空気の壁に阻まれ一気にスローダウンし13位に。
     残り1周直前になったとき、こんどはジミー・スペンサーが単独クラッシュし、ファイナルラップはフルコース・イエロー。ジャレットはペースカーに先導されてチェッカーを受け、3度目のデイトナ500優勝を飾った。
     このレースでジャレットが得た賞金は200万ドル以上。やはりアメリカのレースは桁が違いますね。しかも最後にクラッシュしたスペンサーも、身体を強く打ったらしく、自力ではマシンから脱出できなかったのに、マシンから引き出されたときは、ヘルメットを脱ぎ、スポンサーの帽子をかぶっていた。見あげた根性、これぞアメリカン!
     17日の日記に書いたUさんのメールへのコメントでは、「NASCARはリアルタイムの順位はネットで流していない」と書いたら、突如、nascar.comにメニューができて、ちゃんとやってましたね。テレビよりは2周遅れくらいでしたけど。

     ……てな具合に興奮しながらレースを見ていたために、結局寝たのは午前6時。今日は午後2時から打ち合わせがあったので、昼過ぎには起き出して、コーヒーを飲んで目を覚ます。約束の時間に少し遅れ、保谷駅前の喫茶店に自転車で向かうが、冷たい北風が強いのなんの。住宅の間の道では、突風で自転車が進まなくなる。
     なんとか自転車置き場に自転車を起き、喫茶店で某ネットワーク運営会社の人たちと、コンテンツビジネスに関する打ち合わせ。とりあえず基本路線も合意に達し、まずは一安心。打ち合わせの後は別の喫茶店に移動し、ここでマンガのネーム。しかし、入り口近くの席についたのが悪かった。お客が出入りするたび、北風が足下からビュ〜! おかげで寒気がしてきて早々に帰宅。できている分だけFAXで送信する。
     その間にメールをチェックすると、どうやら4月くらいから新聞の仕事もやることになるらしい。
     風邪っぽいので早々に風邪薬を飲み、身体を温かくして、さらにマンガのネーム。順調にはなってきたけど、まだ先は長いぞ。

    02月22日 ひたすら仕事……

     午後、マンガのネームをFAXで送った返事を確認し、いま描いているマンガの作画を外注している漫画家くまの歩と富士見台のジョナサンで待ち合わせ。クルマで、できている原稿を受け取りがてら、次のネームを渡しに行く。途中で資料用のiMacの写真が出ている本を購入し、これも一緒に渡す。Macの雑誌はたくさんあるが、案外、iMacの全景がわかる写真がなかったりして、結局、単行本になってしまった。あとでインターネットで探せばよかったと後悔。
     ペン入れとベタ・ホワイトがすんでいる原稿を受け取り、クルマで保谷駅前の喫茶店に移動。有楽出版社のM編集長に『疾風迅雷・連合航空艦隊大作戦(3)』(3月中旬発売)のゲラを渡し、クルマで吉祥寺まで送ってから帰宅。待っていたカミサンと娘にマンガの原稿を渡し、スクリーントーン貼りを頼む。2人がかりなので、あっというまに終わってしまい、なんだか拍子抜け。こちらはネームの続きに専念。朝、テレビ小説「あすか」を見てから寝る。

    02月23日 今日も仕事……

     起き抜けに、メールで届いていた座談会の原稿をチェックし(小説家多数がメーリングリストで座談会したもの)、高校の同級生からのメールに返事を書いた後、今日もマンガのネームをやりに、少し遠く離れたデニーズまでクルマを走らせる。
     ここで3時間ほど粘るが、ストーリーの中に出てくる税金のシミュレーションをする必要が生じ、ネームを切り上げて帰宅。ノートパソコンでBASICを起動し、分離課税と総合課税のシミュレーション・プログラムを作り、どちらが得かをチェック。電卓やExcelでもすむようなことだが、ついBASICに頼ってしまう。
     あとは、ひたすら自宅の居間でネーム。腰が痛い。

    02月24日 今日も仕事……

     とくに書くこともなし。ひたすらマンガのネームです。あ、木曜日なので「3年B組金八先生」を見ました。マンガのネームは鉛筆でシコシコと書いているのだが、パソコンとは使う筋肉が違うためか、全身が筋肉痛。イテテテテ……。

    02月25日 森の石松の寿司

     少し早起きして、出版社から連絡のあった請求書を作成。徒歩で喫茶店に出かけるが、その前に書店に寄って「別冊宝島/お宝コミックランキング」と「ポパイ」を購入。さらに「週刊小説」を加えると、本日発売の3つのムック&雑誌に文章、マンガ、対談が掲載されている。なんだか、菅谷 充&すがやみつるの特異日といった感じもある。
     しかし、そんなことより、まず目先の締切だ。蕎麦屋でカレーうどん(しつこい)の遅い昼食をとった後、喫茶店に行くが、つい書店で買った「オール読物」を開いてしまう。直木賞の選考結果発表も目的ではあるが、それ以上の目的は黒鉄ヒロシ氏の連載マンガ「清水の次郎長」。で、ページを開いてみると、なんと、昨日、このホームページの掲 示 板で話題になったばかりの森の石松の「寿司食いねえ」のエピソードが! これをシンクロニシティといわずして何といおう。
     森の石松が、次郎長の代参で金比羅参りに出かけた折り、大阪は淀川から乗った船の上でのエピソード(後生の浪花節の創作)で、石松が「江戸っ子だってね、寿司食いねえ」をやったときの寿司の種類は何だったか……という質問が掲示板で寄せられ、ぼくは、寿司の歴史からして江戸前の寿司ではなく、大阪で主流だった押し寿司か箱寿司ではないかと答えたのだが、黒鉄氏は、清水出身の村松友視氏の「押し寿司」説を紹介した後で、「熟(なれ)鮨」説をとっていた。なれ鮨といえば琵琶湖の鮒のなれ鮨が有名だが、果たして、船旅の弁当がわりの寿司として、なれ鮨が売られていたかどうか……。
     ああ、それにしても、この黒鉄版「清水の次郎長」、早く単行本になってくれないものか。黒鉄氏のストーリーマンガは、幕末ものが映画にもなっているが、長編伝記マンガの第一弾は、私の記憶によれば、「FMレコパル」(小学館)に掲載されたビートルズの伝記。それまで短いナンセンスマンガが主流だった黒鉄氏のビートルズ・マンガは、もう新鮮で鮮烈で、しかも、その絵のうまさときたら、いまでもそうだが、日本の漫画界でも一、二を争うもの。「清水の次郎長」も「ビッグコミック」の「赤兵衛」も、その絵、いや“線”は、もはやタブローである。こういう絵は、ストーリーマンガ系のマンガ家には、逆立ちしても描けない。もし描けたマンガ家がいたとしたら、故・石ノ森章太郎先生くらいのものであろう。

     というわけで、ちょっとショックを受けたりしていたせいか、肝心のマンガのネームが進まず、すごすごと徒歩で自宅に退散。家でネームを入れていたが、どうしても必要な資料がある。その資料とは「会社四季報」なんだけれど、すでに、どこの書店でも品切れ。しかたがないので確実に持っている友人の家までクルマで押しかけ、1冊借りてくる。
     帰途、ロイヤルホストに寄り、「会社四季報」の内容を確認しながらマンガのネーム。なんとか100Pは突破したが、まだ先は長い。


    02月26日 マンガのネームで筋肉痛

     午後に起きてから自宅でパソコンの画面を覗き込みつつマンガのネーム。ホームページを覗いては、内容を確認しつつセリフを入れてコマ割りしていくのだが、シャープペンシルで文字を書いているせいか、肩凝りがひどい。
     夜、作画を依頼している、くまの歩のところにネームを届けながらペン入れのすんだマンガの原稿をもらってくる。家では家族が待っていて、ベタ、ホワイト、トーンの仕上げを担当。自分でペン入れをしていたら、まさに家内工業になるところだった。
     こちらは、ただひたすらネーム。寝たのは午前6時。

    02月27日 今日もネーム

     久しぶりに8時間寝たが、それでも肩凝りは治らず。
     メールのチェックをするとアメリカのレース関係者からメール。彼のショップ(ガレージ)に、日本のレースで使われたとおぼしきマシンが入っているのだが、その履歴がわからないかという質問。マシンはマーチ802、エンジンはマツダの2ローターとのこと。となれば、もろ、これは80年代前半に富士グランチャンピオン(GC)シリーズに使われていたGCカーではないか。マーチ802というF2シャシーに、FRP製のボディをかぶせたシングルシーター・マシン。よく考えたら、わたしが監督していたチームのマシンも同じマーチ802・マツダ13Bだった(わたしが監督していたチームのマシンの写真はこちら。タイトル写真がそうです)。
     で、シャシー番号を教えてくれと返事したら、すぐに「マーチ802−5」だという返信が。これをいまや日本のレース界の大久保彦左衛門(天下のご意見番)となった大串信さんに転送し、そのいわれを調べてもらう。大串さんはシャシー番号コレクターでもあるのだ。
     あっというまに大串さんから返事がきて、この「マーチ802−5」は、1980年のヨーロッパF2選手権で、テオ・ファビが乗っていたワークス・マーチとのこと。となればエンジンはBMW−M12だろう。この年の秋、全日本F2選手権の最終戦「JAF鈴鹿GP」にファビと共に来日して走ったものだという。ウォルター・ウルフ・ジャパンが、このマシンを買い取り、翌年の全日本F2選手権では、ステファン・ヨハンソンとティエリー・ブーツェン(BBCの「トップギア」という番組に、よく顔を出している)がステアリングを握ったらしい。ボディをかぶせられGCマシンになったとしたら、おそらく翌年あたりのことだろう。積まれているエンジンは、マツダスピードのペリフェラル・ポート仕様らしいから、従野孝司さんあたりでも乗っていたかもしれないなあ……。
     我がチームのマーチ802・マツダは、関谷正徳選手のお古で、その前は、中嶋悟選手が乗っていた由緒正しい(?)マシンであった。
     とりあえずわかったところまでを英語に直してアメリカに送り、そそくさとクルマでファミレスに出かけるが、日曜日の夕刻とあって、どこも混雑。4軒目でやっと空きテーブルを見つけ、ここでアサリのパスタを食しつつネーム。
     深夜に帰宅し、できているマンガの原稿に貼りつけるパソコン画面のキャプチャー。これをペタペタと貼りつけて、なんとか45ページまでマンガが完成。まだ残りは180ページほど。先は長い。締切は短い。

    02月28日 ただいま追い込み中

     今日は、いま書き下ろし中のJ社から出版されるマンガ単行本の著者近影を撮影に来るはずだったのだが、約束の午後3時になっても、誰も来る気配がない。おかしいなあ……と思って連絡のメールを見ると、「28日・火曜日」になっている。もしやと思って電話してみると、やはり写真撮影は明日。担当編集者が日付と曜日を勘違いしていたのでした。これも変則閏年の2000年問題か。
     というわけで家でネームを入れていたが、能率が上がらないため、風呂に入った後、午前零時すぎからデニーズに出動。お決まりの「まろやかカレーうどん」を食しつつネームを入れ、明け方帰宅すると出版社にFAX。

    02月29日 風のなかで著者近影

     午後、まだ寝ているうちにJ社の編集者から電話。午後3時からの著者近影の写真撮影を少し早めてほしいとのこと。あわてて起きて髭を剃り、着替えをすませる。
     写真撮影は近所の公園で。しかし風が強く、伸ばし放題の髪がバサバサ。しかたがないのでカミサンのピン留めを借りて、頭の後ろで髪を束ね、なんとか誤魔化して撮影終了。
     撮影後、締切延長のお願いをしつつ少し打ち合わせ。夜、作画を依頼している、くまの歩のところにクルマで原稿を受け取りにいき、かわりに新しいネームを置いてくる。ネームは残り60ページ、原稿は残り160ページ……。


    日記一覧に戻る