STAY HUNGRY!バイバイ、ジェフ・クロスノフ「STAY HUNGRY!」は、ジェフ・クロスノフがヘルメットにつけていた彼の座右の銘です。 7月15日未明、F1イギリスGPをテレビで見た後、チームのリリースの翻訳も終え、『F1速報』誌に連載中の小説『龍の伝説』の残りを朝までにやってしまおうと、再びパソコンに向かった。しかし、カナダのトロントで開催中のインディライツとインディカーレースの経過も気になる。インディライツでは服部茂樹、野田英樹の両選手が予選でいいところにつけていたし、インディカーではジェフ・クロスノフの成績が、少しずつ上昇していたからだ。 原稿を書く裏側で通信ソフトを走らせ、コンピュサーブのモータースポーツ・フォーラムからインディライツの経過を引き出すと、服部、野田が日本人同士で激しいバトルを展開し、そのバトルに競り勝った野田が、ついに3位で表彰台に上っていた。 そしてインディカーレース。荒れたレース展開の中でクラッシュが起きたという。ジェフ・クロスノフがヨハンソンかリベイロと接触したらしい。レースは赤旗で中断となり、そのまま続報が入らなくなった。 メディアセンターでも公式発表が出ないという。この時点で駄目かと思った。リポーターは、おそらく伝聞では情報をつかんでいたと思うが、公式発表があるまで、容態についてのリポートは控えていた。人間の生死に関る情報を伝聞や推測だけで流すことはできないからだ。93年、小河等選手が鈴鹿で事故死したときは、ぼくもそうしていた。 アメリカとカナダではライブでテレビ放映されていたはずなのでと思い、コンピュサーブのモータースポーツ・フォーラムにアクセスし直してみると、フォーラムには100人以上のメンバーが同時にアクセスし、詳細な情報を求める人たちがリアルタイム会議に集まっていた。だが誰もテレビで見た以上の情報は持っておらず、しかも、あまりの人数の多さにフォーラムがダウンし、弾き出されてしまうことになった。 インターネットでインディカーのホームページにつなごうとしても、混雑していて入れない。ESPNのホームページにも、重大な事故があったという速報しか入っていなかった。ケーブルテレビでCNNをつけるが、こちらもアナウンサーがインディカーで事故があったという報告をするのみ。映像つきのレースリポートはF1とNASCARだけだった。 ただ待つしかない。遅々として進まないF1小説の原稿を書きながら――しかもその内容は、レーシング・ドライバーが“命を懸ける”とはどういうことなのかをテーマにしたものだ――コンピュサーブにアクセスしていたが、その時点ですでに徹夜状態になっており、少し寝ることにして、FMOTOR4の速報を新倉さんにバトンタッチしてもらうことにした。そして、寝る前にもう一度だけ、と思ってコンピュサーブにアクセスすると、テレビのニュースがジェフ・クロスノフとオフィシャルが死んだことをリポートしていたという会員からの報告があり、そして、記者会見の内容もあった。即死だったという。
ぼくがジェフと初めて会ったのは、コンピュサーブのモータースポーツ・フォーラムで開催されたリアルタイム会議で彼がゲストになったときのことである。1988年の秋、彼が初めて日本のF3000に出場した直後のことだった。鈴鹿に行けなかったぼくは、そのレース結果を東京からコンピュサーブに送っていたが、アメリカ人が日本のレースに挑戦するということで興味を抱いていた。そこでリアルタイム会議のゲストになるとのことで、その時刻を待ちかねてコンピュサーブにアクセスした。 ジェフはサンタモニカにあるコンピュサーブ・モータースポーツ・フォーラムSysOpのマイクさんの家を訪れ、マイクさんが代理タイピングするというスタイルで、会員からの質問に答えることになっていた。だが、予定時刻になってもジェフは姿を現わさない。当日、ロサンゼルス地方には強風が吹き荒れ、その関係でフリーウェイが渋滞して遅刻することになったらしい。 しばらくしてジェフが到着し、ようやくチャットの開始となったが、当時のジェフは、アメリカではSCCAのスポーツ・トラック・レースにニッサンのワークス・ドライバーとして出場し、この年、シリーズ2位になった若手ドライバーで、キャリアも浅く、さほど有名なドライバーであったわけではない。おまけに日本のF3000に出場したといっても、極東の国のレース事情などはさっぱり理解されていないため、それがどの程度のレベルのレースなのかも理解されていなかったのが実情だ。 チャットに参加した会員も十名足らずだった。 以下は、そのときのチャットの記録の一部である。 (18-2,Larry S) Jeff - race trucks, and now F3000 in Japan. ... このチャットの中でジェフは、F1がゴールであると明言していた。F1の人気がさほど高くないアメリカで、F1ドライバーを目標にするドライバーは多くない。だが、ロサンゼルス近くに暮らしていた彼が初めて見たレースは、ロングビーチでのF1アメリカ西GPだった。1977年のレースだったらしい。1977年だったとすると1964年9月生まれの彼が12歳のときのことだ。それ以来、彼は毎年、ここでF1を見ていたという。 ロングビーチのF1レースは1983年が最後となり、翌年からはインディカーレースが開催され、いまもロングビーチGPは続けられている。その最後のF1アメリカ西GPが開催された1983年、ジェフはラグナセカにあるジム・ラッセル・レーシング・スクールに入った後、この年、フォーミュラ・フォードのシリーズに参戦。 7勝してシリーズ2位となり、ジル・ビルヌーブ・ルーキー・アワードを獲得。引き続きマツダ・プロ・シリーズに参戦を続け、1986年には3勝、2回のポールポジションを獲得した。この当時はUCLAで心理学を学ぶ学生であったことから、レースに専念するわけにはいかなかったようだ。 1987年にはフォーミュラ・アトランティックにステップアップし、6戦にしか出場できなかったものの、シリーズ6位に入り、翌88年には、ニッサンのワークス・ドライバーとしてSCCAレーストラックシリーズに参戦。ここでシリーズ2位となる。このシリーズに参戦中、全日本でF3000を戦っていたスピードスター・レーシングの浅井マネージャーに見出され、鈴鹿で開催された全日本F3000選手権最終戦に出場。予選15位からスタートし、13位完走を果たした。 この頃、日本で走る外国人ドライバーといえば、ヨーロッパでキャリアを積んだドライバーが大半だったが、その中で、フォーミュラ・アトランティックからF3を経てF3000にステップアップした同じアメリカ人のロス・チーバー、日本のF3を経てF3000に上がっていたイギリス人のディブ・スコットなどのように、日本で育つ外国人選手も増えつつあった頃である。当時、日本人の若手ドライバーの中には、F3に上がっただけでプロのような顔をするようなドライバーが多く、ハングリーな外国人ドライバーを育てたほうがいいと公言し、それを実行するF3000チームも増えていた。それがロス・チーバーであり、ディブ・スコットであり、クロスノフであり、そしてその後のエディ・アーバイン、トム・クリステンセン、ジャック・ビルヌーブなどにもつながっていくことになる。それが急に日本人の若手を育てる方向に路線変更されるのは、バブルが弾けたおかげで移り気なファンを失い、日本人の若手スターを育てようという気運が強まってきてからのことだ。
1989年から長谷見昌弘選手の弟子のような形でスピードスターから全日本F3000にフル参戦したクロスノフは、その後、サンテクでマウロ・マルティニと共に走り、さらに長谷見選手が引退した後のスピードスターに戻った後、5ZigenからF3000への出場を続けたが、優勝経験はなく、93年の雨のMineでの2位が最高成績だった。 その一方で、サンテク時代の91年にはジャガーでJSPCにも出場。92年には長谷見選手と組んでNISMOからJSPCに参戦し、第1戦の鈴鹿500kmで優勝している(その前にデイトナ24時間で2位入賞)。だが92年秋、富士でニッサンのスポーツプロトタイプカーをテスト中にクラッシュしてしまう。この事故でジェフは大腿骨骨折と靭帯損傷の重傷を負い、この年後半のレースを欠場することになった。 94年からは、F1に行ったローランド・ラッツエンバーガーの後を受けて、サードからJGTCにスープラの開発を続けながら参戦した。同じサードからGr.Cカーで参戦した94年のルマンでは、ジェフのドライブでトップを走行中の23時間目、ギアリンケージにトラブルが発生してマシンがストップ。それをジェフが自力で修理し、ピットまで戻すことに成功した。メカニックが緊急修理した後、ステアリングを引き継いだアーバインが激走して、2位でフィニッシュしたが、このレースの直後、ジェフがルマンから送ってきたメールのタイトルは「24 Hours Demon」というものだった。これはルマン24時間レースのフランス語「24 Heures du Mans」をもじったもの(du Mansの発音は「ドゥ・モーン」という感じで、語尾の発音が悪魔を意味する「demon(デーモン)」に似ている。
ぼくはチャットで知り合ったのをきっかけに、翌89年からは、サーキットでジェフと言葉を交わす機会が増えていった。といってもその頃は英会話にもあまり自信がなかったため、挨拶程度に終始していた。89年のインディカー最終戦をラグナセカまで見にいったとき、そこでもガールフレンドを伴っていたジェフと会ったが、挨拶と握手だけで終っている。 急に親しくなったのは91年になってからのことだ。日本のレースの結果やリポートをコンピュサーブのモータースポーツ・フォーラムに送っていたぼくは、ある日、突然、ジェフのお父さんから電子メールをもらった。ジェフがポータブル・マックを買って日本に持っていっているが、家族との連絡用にコンピュサーブの電子メールを使いたがっているので手助けしてやってほしいというのだ。そこで多くの外国人ドライバーが宿泊していた青山プレジデントホテルまで、ニフティからせしめたMacCIMというコンピュサーブ専用通信ソフトを届け、日本のアクセスポイントからの通信法をアドバイスした。 その後、菅生や美祢に出かけるたび、現地のアクセスポイントからの通信方法がわからないというSOSのFAXが舞い込むようになり、そのたびに対策方法を伝授することになった。 やがて、コンピュサーブやフランスのミニテルにレース速報を送るついでに、ジェフのお父さんと留守宅にいるトレーシー夫人にも、電子メールとFAXで、彼の出場したレースの速報を送ってあげるようになった。さらにはジェフからのリクエストで、アラスカに住むジェフの叔父さんにも電子メールで速報を送るようになり、ジェフだけでなく、彼の家族との間でも電子メールの交換が始まることになった。もちろんジェフともサーキットで話す機会も増えていた。 92年のF1日本GPの後、テストでの怪我が治らず、まだギプスをつけていたジェフと、ジャック・ビルヌーブ、ヤン・ラマース、英国AUTOSPORT記者のアダム・クーパーや通訳さんたちを交え、鈴鹿のカラオケルームを占拠して、深夜まで合唱大会を楽しんだこともある。 93年8月、鈴鹿1000kmレースに家族で出かけると、ジェフはうちの娘たちにも親切に声をかけてくれたのだが、ブロンドのアメリカ人に声をかけられた娘たちは、すっかりあがってしまい、返事をすることもできなかった。 そのときジェフが着ていたのが、お気に入りの「スピードレーサー」のTシャツ。「スピードレーサー」は日本の竜の子プロ製作のアニメで日本の題名は「マッハGoGoGo」。アメリカでも20年ほど前に放映されて人気を呼んでいたが、その「スピードレーサー」がMTVで再放送されて、懐かしのアニメとして人気を呼び、英語版のコミックスまで再発売されるようになっていた。ジェフも、このアニメがお気に入りだったらしく、カリフォルニアのドライバー仲間と結成したロックバンドの名前が「マッハ5」。これは「スピードレーサー」が愛用していたレーシングマシンの名前だ。子供の頃見たアニメ、そしてロングビーチでGPが、彼をレーシングドライバーへの道に進ませるきっかけとなったらしい。アニメのことは聞きそびれたが、ロングビーチでのF1GP(ぼくも2回見にいっていたので)のことを電子メールで尋ねたとき、彼は、その体験がドライバーを目指すきっかけだったことを認めていた。
{なお、つい先ほどコンピュサーブ・モータースポーツ・フォーラムに掲載されたジェフ・バックナム(第1期ホンダF1ドライバー、ロニー・バックナムの子息で現在バーバー・ダッジ・シリーズに参戦中)のメッセージによれば、彼の家とジェフの家はカリフォルニア州ラカナダのすぐ近所にあり、彼のお姉さんとジェフが小学校の同級生だったという。お姉さんが小学校の「Show and Tell Day」に、父ロニー・バックナムがレースで使っていた記念の品々を持っていったことが、ジェフにとって初めてレースというものに接する機会となり、その後、モータースポーツに憧れるきっかけになったのだと、ジェフ本人が語っていたらしい} 93年までは頻繁にサーキットでジェフに会っていた。92年、鈴鹿で小河等選手が事故死したとき、レース後、ジェフはぼくのところに様子を聞きにきた。まだ公式発表のある前だったが、すでに駄目らしいという情報はプレスルームにも流れていた。そのことを伝えると、彼は首を振って立ち去っていった。その後ろ姿を今でもよく覚えている。
94年になると、ぼくは娯楽小説に挑戦するためプレスカードも返上し、サーキットに行くのを中断した。そのため、この年には、ジェフとは、ついに会わず仕舞いだった。
「F1速報」誌にF1レースの小説を連載することになり、FJ1600のレースを取材するために鈴鹿に出かけ、久しぶりにジェフと会った。1995年春のことだ。ジェフと直接会うのは、これが最後になった。しかし、F1小説や、その後、書き下ろしたインディカーレースの中で、フォーミュラカーのドライビングや富士、鈴鹿の走りについて疑問点が出るたび、電子メールでジェフに質問した。彼は24時間以内には必ず返事をくれ、鈴鹿の130Rの抜け方やシフトチェンジの方法を丁寧に説明してくれた。
昨年の富士でのF3000の最終戦のときには、両親も来るというので、東京で会食しようということになった。だが、両親の来日はキャンセルされた。ちょうど彼がカリフォルニアの自宅を出ようとしたときに、チップ・ガナッシのチームからテストの誘いの電話があったそうで、日本でF3000を走った後、トンボ返りでフロリダに向かうことになったからだ。直後にテストの様子がコンピュサーブにも掲載されたため、執筆直後だったインディカー小説の後書きに、そのことを書き加えることができた。そのゲラ刷りが出た直後、急転直下、ジェフのアルシエロ・ウェルズ入りが決まったとのリポートが、コンピュサーブに掲載された。そこでジェフに確認の電子メールを送ると、彼は、正式発表があり次第、リリースを送ってくれるとの返事をくれた。そしてリリースは、電子メールのやりとりから1時間も経たないうちに、アルシエロ・ウェルズ・チームからFAXで送信されてきた。すでにゲラになっていたインディカーレース小説の後書きの内容を変えることができたのは、このFAXのおかげだった。
今年、彼がインディカーで走るようになってからも、電子メールの交換は続いていた。「Racing On」に電子メールで原稿を送ることになったので、編集部のアドレスを調べてほしいという依頼もあれば、日本のレース雑誌の購読法を尋ねてきたこともある。ぼくが送っている日本のレースの結果を見ては、感想も送ってくれた。日本を離れても、日本のレースのことが気になっていたらしい。
3年ほど前、「人柄は、あんないいヤツはいないってくらいにいいんだけど、レースでも、その人柄が出てしまうんだよなあ……」とジェフの所属するチームの関係者が話していたことがある。だが、一緒に日本で走った僚友たちが次々とF1に向けて羽ばたいていくのを見ているうちに、次第にキャリアのことを真剣に考え始めたようだった。94年にルマンで2位を獲得した後、その足でジェフはミッドオハイオに回ってインディカーのチームに接触し、自分の売り込みを図っていた。また、日本のF3000でも、以前に比べて順位を上げることに貪欲になっていたように見える。さらにはサード・スープラの開発にも熱を入れていたようだ(テストの内容については、電子メールでも一切語らなかった。ただTIや美祢などからレースやF3000のテストデー以外のときにメールの返事がくるので、どうやらスープラのテストらしい、ということが推測できただけだった。そのような面でも彼はプロだった)。 インディカーでトヨタエンジンの開発ドライバーの役割を与えられたのは、スープラでのレースと開発の経験が考慮された結果だと推測しているが、そんなにはずれてはいないだろう。F1でチャンピオンを何度も獲得したホンダでさえも、インディカーで常勝状態になったのは、3年目の今年からだ。トヨタエンジンにパワーと信頼性が出てくれば、来年、あるいは再来年あたりが飛躍の年になる――そう思っていたアメリカのレース関係者も少なくなかった。 ジェフはトロントで街灯のポールにぶつかって死んだ。鈴鹿のテレビカメラのポールに当たって死んだ小河等選手同様に、“あんなところに柱が立ってなかったら……”といえるのは、事故が起こった後だからだ。アメリカの通信社のニュースには、ジェフの事故で死亡したオフィシャルの母親のコメントが載っていた。レースが好きでボランティアで北米一帯のレースにコーナーワーカーとして参加していた息子のことを、今年70歳になる母親は、「愛するレースの現場で死んだのだから、息子はとても幸福だと思います」と述べていた。 レースを走る限り、オフィシャル、チーム、あるいはプレスとして参加する限り、そこには必ず危険がつきまとうことになる。そのリスクを承知で参加するのがモータースポーツでもあるのだ。マシンやコースの安全性を問いかけるのは簡単なことだ。でも、どんなに安全性を追及したところで、必ず“予期せぬ”危険はつきまとうものだ。そして、安全を追及すればするほどレースはつまらないものになるのも事実なのだ。
“That's Racing! Just Racing!” ジェフと最後に電子メールを交換したのは2週間ほど前のことだった。先週、フォーミュラ・ニッポンの結果をコンピュサーブに送った後、アメリカのメンバーがフォーミュラ・ニッポンで走るレイナードとローラのシャシーが、インディカーの同じ銘柄のシャシーとどのように違うのか質問してきた。ぼくがその質問に答える前に、さっさと回答してくれていたのがジェフだった。ジェフは、インディカー・ドライバーをしていることもあり、会議室には直接書き込みをすることはめったにない。ぼくの記憶ではこれを含めて2回だけだ。ジェフの最初の公開の場でのメッセージは、94年サンマリノGPで死亡したローランド・ラッツエンバーガーの葬儀の案内を伝えるものだった。 1996年7月15日
すがやみつる
(※注:ジェフの事故に巻き込まれて死亡したオフィシャルは、火葬に付された後、遺族の希望で、彼がホームサーキットとしていたカルガリーのサーキットに散骨された) |