サラリーマンのための
パソコン入門講座〈殺人篇〉


作・菅谷 充{すがやみつる} (カバーイラスト・浅賀行雄)
発行・株式会社アスキー
発売・株式会社アスペクト、アスペクト・ノベルス
定価・880円 1996年9月21日発売

(本文より)

  プロローグ

「なにやってんだ、お前ら!」
 岸和田雄一の怒声が天井に反響し、室内の空気がびりびりと震えた。
 東京・日本橋、大納言電器株式会社本社ビル八階にある会議室。窓の外には鉛色の雲がどんよりと重く垂れこめた七月初旬の金曜日。ちょうど昼休みが終わったばかりの時刻だった。
 営業本部特販一課課長の岸和田は、ホワイトボードにマグネットで貼られたグラフをバンバンと手のひらで叩きながら、昼食をすませて駆けつけた十人の部下に向かって、先ほどから大声で喚きつづけていた。
 部下の営業マンたちの年齢は、二十代後半から三十代前半。一方の岸和田は、まもなく四十六歳になる。
『巨人の星』と『あしたのジョー』で育った岸和田の根性路線は、『みゆき』と『うる星やつら』で育った部下に通じるはずもなかったのだが、岸和田は、自分のやり方こそが正しいと信じ込んでいた。大声をあげては部下を叱咤し、そのあとで怒鳴りつけた部下を酒場に誘っては懐柔する。そんな『厳しいが話のわかる上司』を演じる自分に酔っていたのである。
「先月は、コピー、FAX、電話機、どれも売り上げが前月比六割減と大幅ダウンだった。すでに従来の得意先には新製品が行きわたっている。あとは、他社のシェアを奪うのみ。売り上げが伸びなければ、お前たちのボーナスはないと思え。根性あるのみだ。土下座してでも新規の得意先を開拓して、注文を取ってこい!」
 岸和田が吠え終わるのを待っていたかのように、会議室のドアがノックされ、女子社員が遠慮がちにドアをあけた。
「課長……」
「なんだ?」
「経営企画室の安川室長から電話で、至急、室長席まで来ていただきたいとの伝言なんですが……」
「え……」
 岸和田は、身体を凍りつかせた。
 部下の社員たちは、上目づかいに岸和田の表情を窺っていた。なかにはあわれみの表情を見せる者さえいる。
 経営企画室は、昨年の暮れに社長の鶴の一声で発足した部署だった。
 この数年、大納言電器も円高不況の直撃を受け、工場の海外移転をはじめとする社内の空洞化がはじまり、国内では人手が余るようになっていた。
 となれば目指すのはリストラということになる。工場の統廃合、余剰人員の整理が進められ、それが一段落したいま、リストラの波は、間接部門のホワイトカラーに及ぼうとしていた。本社に設置された経営企画本部は、コンピューター・ネットワークをはじめとするオフィスワークの電子化推進を旗印に掲げてはいたが、社員たちは、こっそりと『リストラ企画室』と呼んでいた。社内業務の電子化だけでなく、人員整理の指揮をとる部署でもあったからだ。
「よく反省しておけ」
 部下にいいおいて岸和田は会議室を出たが、その足がもつれそうになる。岸和田も経営企画室設立の狙いを充分承知していたからだ。
 身長一七五センチ、体重九〇キロの岸和田は、昭和二十三年生まれの四十七歳。大量採用された団塊の世代の同期社員のなかでは、たしかに課長になるのは早かった。三十九歳で課長になるということは、保守的な会社である大納言電器では、異例のスピード出世だったのだ。
 早い出世は、中学から大学までつづけた柔道で鍛えた体力にモノをいわせて勝ち取ったものでもあった。
 家電チェーン店の社長や担当重役の家に、文字通り夜討ち朝がけを繰り返しては、相手を辟易とさせて契約書にハンコを押させてしまう――それが岸和田の得意技だった。
 地方の支店に出ていたときは、セールス部隊の突撃隊長として部下たちをしごくかたわら、毎夜、酒瓶を抱えては地元の家電店の店主宅に押しかけ、相手を酔いつぶさせては契約をもぎ取っていた。
 ヤクザに脅されていた店主を助けたことで、新しい契約を取ったことも一度や二度ではない。街金融{マチキン}からツナギ資金を借りたはいいが、資金がうまく回転せず、窮地に陥ってしまうような店主も少なくなかったからだ。
 だが、この数年、どの会社でも社員の成績は数字優先となり、人脈やコネも通用しにくくなっている。得意だった接待攻勢も、経費節減のあおりで不可能になっていた。それが最近の成績に反映し、いまだ課長の地位にとどまっていた。
 八階のエレベーターホールに着いて、上りのボタンを押すと、左側のエレベーターのドアが開いた。上の階から降りてきた下りのエレベーターだ。
 エレベーターのなかでは、初老の男が“開”のボタンを押し、書類を両手に抱えた女子社員が出るのを助けていた。
 身長一六〇センチほどの小柄な男だった。真っ白な頭髪は、櫛も入れていないのか、ザンバラに乱れている。着ているグレーのスーツもよれよれだった。そのくせスーツの襟元には、大納言電器の社員バッジがピカピカと光っている。勤続三十年以上の社員に贈られるゴールドバッジだった。
 ――たしか、清水とかいったな、このオッサン……。
 岸和田は、横目でチラリとエレベーターの中の男を見たが、相手が、こちらに顔を向けて会釈したのに気づくと、ぷいとそっぽを向いた。
「ふん、窓際族のくせしやがって……。あんたなんかに親しげにされたら迷惑だ」
 左側のドアが閉まると、岸和田は毒づくようにつぶやいた。
 左側のエレベーターのドアの上にある階数表示のランプを見ていると、ランプは一気にB2まで進み、そこで停止した。

          *

 ドアの向こうで、電話が鳴っていた。
 エレベーターホールから歩いてきた清水武治は、あわてて“社史編纂室”と手書き文字で書かれた紙が貼られているだけのスチールドアを押した。
 そこは地下の倉庫だった。片隅にデスクがポツンとひとつ。それが清水の席だった。
 一日中、陽も差すことのない地下二階の倉庫の片隅で、清水はスチールデスクの上に二百字詰めの原稿用紙と資料をひろげ、ひとりで社史の原稿をまとめていた。
 照明は、デスクの真上の天井に蛍光灯がひとつだけ。古ぼけた蛍光灯は、ジジッ、ジジッと音を立てている。終日、その下に座っている清水は、蛍光灯にまで「ジジイ、ジジイ」といわれているような気がしてならなかった。
 デスクの上には黒いダイヤル式の電話機が一台載っている。社内の電話がダイヤルインになって久しいが、この電話だけは内線専用になっていて、外線からの電話は、受付につながる代表電話番号経由でないと通じなかった。
 だが、この電話機のベルが鳴ることは、めったになかった。社内からさえも電話はかかってこない。社史編纂室も清水の存在も、社内では、ほとんど忘れ去られていた。
 最後にこの電話機のベルが鳴ったのは、一年前のことだった。ガンで入院していた妻の危篤を知らせる電話で、ひとり娘の綾子がかけてきたものだった。
「はい、社史編纂室」
 清水は、少し緊張しながら受話器をとりあげた。娘の綾子に何かあったのではないかと思ったからである。そんな用件でしか、交換台から電話がかかってくる理由は思い浮かばなかった。
 だが、彼の予想ははずれていた。
「こちら経営企画室ですが、至急、安川室長の席までおいでください」
 涼しげな若い女性の声が流れてきた。
「承知いたしました。すぐうかがいます」
 清水は、電話機に向かって一礼し、そっと受話器をもどした。
 ――どうせまた、早く会社をやめろという勧告にちがいない……。
 清水は背筋をのばすと、手のひらにペッと唾を吐きつけ、その手で耳元の乱れた白髪をなでつけた。

        *


『経営企画室の安川室長のお席に、至急おいでくださいとのこと。PM1:00』
 藤林薫{ふじばやしかおる}が自分の席に着くと、新聞、雑誌、単行本が散乱したデスクの縁に、こんな伝言が書かれた糊つき付箋紙{ポストイット}が貼りつけられていた。
 宣伝部の室内を見まわしたが、誰もいない。壁にかけられたホワイトボードを見ると、全員がプレゼンテーションルームに出かけていた。どこぞの広告代理店が、新しい広告の“プレゼン”でもやっているのだろう。
 藤林は、デスクからポストイットをはぎとると、指先で小さく丸め、屑籠に放り投げた。
 そのまま椅子にどっかと腰をおろし、ジャケットのポケットに突っ込んであった競馬新聞を引っ張り出す。その紙面には、先ほどまで喫茶店で検討した今週末の競馬の予想結果が、赤鉛筆で書き込まれていた。
 ――ギャンブルには赤鉛筆がよく似合う。
 そう信じている藤林は、けっして赤のボールペンやフェルトペンは使わなかった。
 予想紙を見つめていた藤林は、しばらくすると受話器をとり、ノミ屋に注文を入れた。
「あの……」
 藤林が受話器を置くのを待っていたかのように、背後から若い女性が話しかけてきた。アルバイトにきている女子大生の声だ。
「なんだい?」
 藤林は、振り返りもせずに返事した。
「メモご覧になっていただけました? 必ず伝えるようにと経営企画本部の人から念を押されているんです……。ぜひ、行ってください。でないと、わたしが叱られますので……」
「ああ、心配するなって」
 藤林は、左手を背後に向かって振りながら答えると、再び競馬の予想紙に目をもどした。
「お願いします……」
 背後に立つ女子大生は、いまにも泣き出しそうな声をだした。
「わかった、わかった、すぐ行くよ」
 藤林は、競馬の予想紙をデスクの上に放りだすと、しぶしぶと席を立った。「おれは、女の涙に弱くてな……」
 藤林は、振り返りざまにツバメ返しのような早業で、ツツッと女子大生のタイトスカートの尻を撫であげた。
「きゃ……!」
 藤林は、小さな悲鳴を背中で聞きながら、宣伝部の部屋を出ていった。

        *


「いま、この世の中には二種類の人間しかいません。パソコンを使える人間と使えない人間。その二種類だけです」
 安川昭雄は、断固とした口調でいうと、縁なしメガネの奥で鋭利な刃物のような細い目を光らせながら、椅子にすわる三人の社員の顔を、ねっとりとした粘つくような目で見まわしていった。
 その視線にさらされているのは、岸和田雄一、清水武治、藤林薫の三人だった。
 十一階にある経営企画本部専用の会議室――この部屋の窓から見える空も、どんよりと曇っていた。
 経営企画室長の安川昭雄は四十六歳。部長待遇を与えられている。
 安川は、労働組合で専従書記をつとめたあと、常務の引きで総務部に迎えられていた。
 常務の命をうけて全国に散らばる工場を飛びまわり、工場の再編成を断行してコストの断行したのが安川だった。傾きかけていた大納言電器の財務を立ち直らせた男として、マスコミにも何度も取り上げられている。
 工場の再編成といえば聞こえはいいが、そこでは多くの社員が、次々と打ち出される合理化策によって退職させられていた。
 安川は、コンサルタント会社と相談しながら多数の早期退職制度を導入し、退職希望者を募っては、人減らしを推し進めていた。それでも辞めない社員は子会社や閑職にまわすなどして、邪魔な社員たちのやる気を削いでいったのである。
 イジメやいやがらせによって、泣く泣く退職に追い込まれた社員も多かった。組合にも提訴があったが、組合には、とっくに常務と安川の手がまわっていた。そのため、提訴も、ことごとく握り潰されてしまったのである。
 その結果、リストラの指揮をとってきた安川のことを、社員たちは、『首斬り安』とまで呼ぶようになっていた。
 その工場の現場部門でふるわれた大ナタが、ついに事務部門でもふるわれることになり、そのために設置されたのが経営企画室だった。
「すでに一部で試験的に導入がはじまっていますが、いよいよ全社的にコンピューター・ネットワークを導入することになりました。社員全員にパソコンが支給され、すべての書類はパソコンで作成され、ネットワークを通じて配布、転送されることになります。つまり、パソコンを使えない社員は、仕事ができなくなるということでもあります」
 そういって安川は、三人の社員の顔を見まわした。岸和田と清水はうなだれ、藤林は、自分とは無関係だとばかりに鼻毛を抜いていた。
「そこで我が社では、全社的に、パソコンを使えない社員のために、パソコン研修を受けてもらうことにしました」
「え……」
 岸和田が不安そうに安川の顔を見た。
 安川は、その視線をはずして話をつづけた。
「これから先、パソコンを使えない社員は大納言電器には不要です。仕事をしたいと思っても、パソコンを自在に操作できなければ、働く場所もなくなるでしょう。そこで本社、全国の支社、営業所から、もっともパソコンが苦手そうな管理職を選抜し、第一期生として合宿研修に参加していただくことになりました。
 期間は一週間。保養所の伊豆海浜荘が研修会場になります。会社に残りたければ、一週間でパソコンをマスターしてきてください。皆さんがパソコンを使えるようになれば、他のパソコンを毛嫌いしている社員たちも、考えを変えることでしょう。その点でも、皆さんには期待しています」
 室内が、しんと静まり返った。
 そのなかで、社史編纂室長の清水が恐るおそる声を出した。
「あの……」
「なんでしょう?」
「もしも一週間でパソコンが使えなかった場合、その社員はどうなるんでしょう……?」
「それは簡単です。その社員の机が会社からなくなるだけですよ」
 安川は、あっさりというと、経営企画室に通じるドアをあけ、さっさと会議室から出ていった。
 岸和田と清水が、じっとその後ろ姿を見送っている。藤林は、抜いた鼻毛を、ふっと吹き飛ばしていた。

        *

 安川は、会議室とつながるドアを開け放したまま、経営企画室に入ってきた。
「ちょっと常務のところに行ってくる」
 経営企画室の女子社員に向かって声をかけた安川は、そのまま廊下に通じるドアに向かう。
「行ってらっしゃいませ」
 美人ぞろいの女子社員たちは、一斉に立ちあがって頭をさげた。
 ドアに向かって歩いていく安川の背中には、いくつもの視線が貼りついていた。
 複数の視線には、それぞれ異なる想いがこめられていた。
 愛情をこめた熱い視線、なぜなんだ――という疑問を投げかける視線……。
 そのなかには、憎悪と殺意のこもった粘っこい視線も絡みついていた。

 (後略……)
| 『サラリーマンのためのパソコン講座〈殺人篇〉』のページへ | 小説のページへ | 小説作品リストへ | Top Page |