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  • 1999年11月下旬の日記
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    11月21日
     寝たのが午前2時なのに、午前7時に起床し、母を伴い、東海道新幹線と伊豆箱根鉄道経由で伊豆長岡まで。6年前に死んだ腹違いの兄の七回忌に出席するため。伊豆箱根鉄道の電車に乗るのは40年ぶりくらいだろうか。
     菩提寺は、北条義時夫妻の菩提寺でもある北条寺というお寺。法要の後、山の上にある墓にお参りし、小料理店で昼食。昼間からビールを飲んで再び眠気に襲われ、帰りの新幹線のなかでグッスリ。
     なんとか帰宅したものの、疲れで仕事にならず。

    11月22日
     昨夜は見逃していたCART最終戦が日本テレビで放映されたため、眠気をこらえて0時55分の放送開始時刻を待つ。番組序盤は、このレースで死亡したグレッグ・ムーアの追悼。やっと見たクラッシュの映像は、これでは死亡してもしかたないと思えるほど激しいもの。しかし、眠気の限界もそこまで。ハッと寒気に襲われて目を覚ますと、座椅子にもたれて眠っていた。当然、レースも終わっていて、身体はゾクゾク。あわてて風邪薬を飲んで布団に潜る。
     早めに寝たせいか、午前9時に起床。少し原稿を書いた後、クルマで光が丘までレッツノートのキーボードを受け取りにいく。今回は、ちゃんと中身を確認してからキーボードを受領。帰途、ファミレスに寄って朝食兼昼食を取りながら持参したドライバーを使ってキーボードを交換。新しくなったキーボードは弾み具合もよく、心なしか原稿の進み具合も早くなったようだ。
     いちど家に戻り、会社の決算のため、税理士さんのところに出かける準備をしていると、突如、つけていたテレビがブツン。すぐに停電だとわかる。外では近所の奥さんたちが集まり、電話が通じないといっている。手元の携帯電話を見ると、こちらも「つながりにくくなっています」の表示(i-ModeはOKだった)。停電についての問い合わせのため、電話回線が輻輳(ふくそう)を起こしているらしい。「輻輳」と日本語で書くとむずかしいが、英語なら「Congest」。直訳すれば「充血」だ。電話回線に呼び出しが集中して、通話をさばき切れない状況をいう。
     電話回線がこんな状態になるということは、かなりの広域停電に違いない。停電になったときは、一瞬、テレビにザザッという雑音が入り、一瞬もどって、また切れた。この状況からして、クルマが電柱にぶつかって、へし折ったのかも……と想像したのだが、どうも、それよりも停電の範囲が広そうだ。変電所など高圧系統での事故か何かだろう……などと考えてしまうのは、かつて、電力エネルギー漫画を描いていた者の悲しい性かも。
     とりあえずミニラジオを持って家を出るが、最初の一報は、交通情報から。青梅街道、新青梅街道、環八など、かなりの広範囲で信号が消えているという。これでは西武鉄道の電車も止まっているにちがいない。自転車で駅に向かおうと思ったが、タクシーかバスで中央線に出る可能性もあるため、結局、徒歩で西武新宿線の武蔵関駅に向かう。
     途中の交差点は信号が消え、老人ケアセンターの近くを通ると、屋上で非常用の発電機が轟音を上げている。新青梅街道の信号も消え、白バイ警官が手作業で交通整理をしていた。その交差点に近づいたとたん、近所のマンションの窓から、「ついた〜ッ!」という子供の叫び声。その声と同時に信号も点灯した。
     ラジオでは、西武池袋線、西武新宿線、東武東上線、地下鉄有楽町線がストップしていると報じていたが、これなら、まもなく動くだろうと、なおも駅に向かう。駅に近づいたとき、停電のニュースとは無関係に、ジェット練習機墜落の第一報が入る。場所は狭山。停電の原因はこれだ、と直感。幹線の送電線が墜落事故で切断され、別系統に切り替えられるまでの間、停電になってしまったのだ。
     武蔵関駅から各駅停車の電車に乗り、上石神井駅で急行に乗り換えるが、電車は動いたり止まったり。すでに電車は動き出しているのだが、ラジオでは、まだ止まっていると報じている。有楽町線は、非常用電源装置から排出された煙が要町駅の構内に流れ込み、これがストップの原因になっているらしい。
     なんとか西武新宿駅までたどり着き、ここから地下鉄丸の内線に乗り換え、四谷三丁目の会計事務所へ。約束の時間にギリギリセーフ。税務署に提出する決算書類に書名捺印して社長の役目は終了。
     本当は家を出る前に電話するはずだったのに、停電騒ぎで電話できなかったT社に電話をかけ、先週、依頼を受けたマンガの件で打ち合わせさせてもらうことに。タクシーで麹町のT社に向かい、担当編集者のH嬢と打ち合わせした後、編集長に紹介される。
     帰りは有楽町線の麹町駅まで歩き、西武池袋線への乗り入れ電車で帰ろうとするが、昼間の停電騒ぎの影響で、西武池袋線直通電車は運休。しかたがないので池袋で西武池袋線の急行に乗り換えるが、各駅停車に乗り換える石神井公園駅で降りると、池袋駅もそうだったが、ここもホームが満員。到着した各駅停車も、また満員。ノートパソコンを背負ったまま歩いたせいで腰に痛みを感じていたこともあり、石神井公園駅で外に出て、喫茶店に入って架空戦記の原稿を書く。2時間ほど原稿を書いてから駅に向かうと、ダイヤは正常に戻っていた。各駅停車で保谷駅まで戻り、徒歩で帰宅。う〜、腰が痛いぞ。

    11月23日
     昨夜は、書き下ろしノベルスをやらないかと声をかけてくれていたK社の編集者に送るプロットをまとめていたため、早寝の予定だったのに、寝たのは午前4時。それでもなんとか午前10時には起きて、ヒタヒタと締切の迫る架空戦記の原稿を書き、午後からマンガのネームを入れるために外出。大泉学園の喫茶店をハシゴしてネームを入れる予定が、書店に寄って買い込んだ『本田宗一郎の真実』(軍司貞則/講談社文庫)を読了してしまう。
     本田宗一郎氏に関する本は、もう何冊読んだかわからないが、どれを読んでも面白いのが本田宗一郎氏に関する本のいいところ。これも本田氏のキャラクターによるものなのだろう。1976年の春、レースの取材で鈴鹿サーキットに出かけたぼくは、朝、サーキット内を歩いていると、「よっ!」と知らないオッサンに背後から肩を叩かれたことがあった。そばにいたサーキットの社員の方に、「あの方、どなたですか?」と訊くと、「最高顧問です」。最高顧問の意味がわからずキョトンとしていると、「ホンダの前社長ですよ」とサーキットの方が説明してくれて、はじめて納得。実に気さくな方で、「おっ、よっ、おはよー」と、周囲の人たちに手をあげて声をかけながら、どんどん歩いていった。このときの体験が元になったわけではないが、その後、本田氏に関する本をたくさん読み、生き方において憧れの人となった。ぼくの一番好きな本田氏の言葉は、「人間死んだらカルシウム」というものだ。
     あわてて保谷に戻り、マンガのネーム……の予定が、また架空戦記の原稿書き。午後10時、喫茶店が閉まったため、自宅に戻り、ネームを入れる……が、眠い。少し寝ます>編集者さま。明日の朝、早起きして残りをやりますので(^_^;)。

    11月24日
     昨夜は早寝するつもりで風呂に入ったら、湯船の中でグ〜。ハッと気づいて身体も洗わずに出てきたら目が覚めてしまったので、結局、朝までかかってマンガのネームをやってしまう。これで昼頃まで寝られる……と思ったら、1時間も寝ていないのに電話がジャンジャン。こんなときに限って家族が留守。しかも電話の内容はセールス。声がトゲトゲしくなるのも、しかたあるまい。
     再び布団に潜って2時間ほど寝た後、FAXでネームを送信。すぐに返事があって、2本送ったうちの1本を手直ししてほしいとのこと。とりあえず了解して、カミサンにクルマで武蔵関駅まで送ってもらい、西武新宿線〜山手線〜総武線経由で信濃町駅へ。途中、新宿駅の手前で窓から煙がモクモク。西口ションベン横町が火事ではないか。ちょうど鎮火したばかりだったらしいが、電車の中や、乗り換えのために降りた新宿駅ホームにまで、焼けた臭いがプーン。昔は、ここの定食屋のお世話になったのになあ。そういえばカミサンとの初デートも、ここの鯨カツ屋だった。
     信濃町駅からはタクシーで青山1丁目へ。J社に出向いて編集者と仕事の打ち合わせ。そのあと青山1丁目交差点角の洋菓子店のティールームに飛び込んで、直しになったネームをあげ、発注先のT社に電話。近くなのでタクシーで押しかけ、直接チェックを受けることにする。少し直しが出たが基本的にはOKになったので、麹町駅から地下鉄有楽町線〜西武池袋線直通電車で保谷駅経由で帰宅。睡眠不足で身体がダルいのでタクシーで帰ろうと思ったが、雨のせいかタクシーがいない。しかたないので徒歩で帰宅。座椅子にもたれて疲れをいやし、小説の原稿を進める。マンガは明日からだ。

    11月25日
     いつもより早寝したせいか、午前8時過ぎには起きてしまう。そのまま小説の資料調べをするが、身体がダルくてたまらない。再び布団に潜って2時間ほど寝てしまう。
     午後、マンガを手伝ってもらう、くまの歩のところにネームを届けにいく。富士見台のジョナサンで待ち合わせ、ネームの説明。彼は、最近、パチンコ漫画を描いたりしているらしい。
     くまのと別れた後、別のジョナサンに行き、ここでJ社から頼まれていた昔の作品のチェックをし、赤入れなどをして荷造りし、帰途、宅配便で発送。
     帰宅後、自分の分のマンガに取りかかるが、ウ〜ン……久々のマンガの仕事を前にプレッシャーが……。

    11月26日
     睡眠不足で目の焦点が合わないままマンガの原稿に取りかかる。PageMakerでコマ割りをし、プリントアウトした原稿用紙に下書きを入れ、ペン入れをする。自分でコマを割ったマンガにペン入れするのは何年ぶりだろう。
     ペン入れした原画をスキャナーで読み込み、PhotoShop LEで色つけ。Pentium II 166MHz、メモリー96メガバイトのパソコンでは、B4フルカラーのマンガの色塗りはしんどい。途中経過をセーブしないまま色塗りを進めていたら、突然、エラーが発生して、PhotoShop LEが終了。ファイルをセーブしていないときに限ってトラブルが起きるというのは、マーフィーの法則だからしかたない。3ページのうち2ページまで終わったところで、いちどダウン。寒いので布団乾燥機のスイッチを入れ、袋を抱えて寝る。

    11月27日
     4時間ほどの睡眠で午前10時に起きるが、布団乾燥機を使ったおかげで熟睡できたらしく、目の焦点が合っている。残った原稿に色をつけるが、またエラー。こういうときに限って、途中でファイルのセーブを忘れている。泣く泣くまた最初から色つけ。
     くまの歩に依頼してあった原稿も届き、こちらにつけるパソコン画面のキャプチャーもすませ、すべての原稿が終了したのは午後4時すぎ。
     編集部に電話して編集者に取りにきてもらう。ミスがあるといけないので、編集者に家まで来てもらい、その場で原稿をチェック。問題なしとのことで、編集者を駅まで送るついでに途中で食事。お腹が一杯になったら話すのもしんどいほど眠くなる。食後、編集者を駅まで送って、やっとこさ家まで戻り、しばし休憩。仮眠をとってから小説の原稿のつづきに戻る。
     その間にレーシングドライバー眞田清裕選手の訃報が。昨日、名神高速道路で交通事故死したとのこと。日曜日に、ツインリンクもてぎで会って、話したばかりだったのに……。
     彼の父親の眞田睦明選手もレーシングドライバーで、しかも、ぼくの高校の先輩でもあった。10年ちょっと前、レースのチームを組んでミラージュ・カップに参戦していたときは、同じチームとしてエントリーし、サーキットを一緒に回っていたものだった。そんなこともあって、まだ小学生だった清裕(せいすけ)も、サーキットでは、いつも一緒だった。ワンパクで手のつけられないイタズラな子供だった。
     1995年にイギリスのオールトン・パークにレースの取材に出かけたときは、イギリスにレース留学していた彼が、わざわざロンドンから会いに来てくれた。数年ぶりに会った彼は、すっかり大人になっていて、向こうから挨拶されなければわからないほどだった。
     火の玉のようなレースの職人でもあった父親を尊敬していたが、「レーサーになっていなかったらヤクザになっていた」とプロフィールに書いているのも頷けるオッチョコチョイなヤツでもあった。知っているドライバー……それも年下の選手が次々と死んでいくのは、どうにもやりきれない。これがサーキットから足が遠のいてしまう一因にもなっている。眞田睦明選手からも、「サーキットなんか来るんじゃねえ。とっとと家に帰って本業をやれ!」と、いつも怒られていたこともあったんだけど……。清裕の冥福を祈ります。

    11月28日
     4時間ほどの睡眠で起床するも目の調子が悪い。たまにマンガなんて描いたものだから、疲れが出たらしい。架空戦記の原稿を進めるが不調。夕方布団に潜って寝る。

    11月29日
     今日はなんとか目の調子がいい。午前中に起き、原稿を書いていると英字新聞から電話。英語に関するインタビューの申し込み。とりあえずOKする。
     午後、徒歩で武蔵関駅まで出かけ、駅前の喫茶店で原稿。さらに別の喫茶店に移動しようと駅前に行くと、荻窪行きのバスが停まっている。フラフラと、このバスに乗って荻窪まで行き、駅近くの喫茶店を二軒ハシゴして原稿。帰宅は深夜。そのまま午前8時まで原稿。

    11月30日
     睡眠4時間で起床。寝ぼけマナコで原稿を書き、夕方、保谷駅前の喫茶店に出かけて原稿。中華料理店でタンメンを食べ、さらに次の喫茶店にと思ったが、身体がダルくてたまらず、ゆっくりと歩いて帰宅。少し休養をとって家で原稿。


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