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  • 1999年3月下旬の日記
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    03月21日
     夕方、アニメのシナリオやユーモアミステリー小説でおなじみの金春智子さんが我が家に。近々、ハワイに出かける予定だそうで、そのときにプロ野球の結果を知るため、オアシスポケット2でニフティサーブに接続したいとのこと。しばらくぶりにオアポケに触ったので、設定方法などを忘れている。ちょっとマニュアルでカンニングして、なんとか「コンピュサーブ・ネットワーク」の東京直通アクセスポイントで接続できることを確認。これで電話番号だけ変えればハワイからも接続できるはず。
     雨もひどくなってきたのでクルマで金春さんを自宅まで送り、待っていたご主人の高屋敷英夫さんに、阿佐ヶ谷のタイ料理店でごちそうになる。高屋敷さんに会うのは何年ぶりだろう? パソコンの話、野球の話、海外旅行の話で盛り上がり、ハッと気づいたら午前零時。すっかり時間の経つのを忘れていた。
     金春さんには、ぼくの秘蔵の『ハリウッド大通りでミステリー』にサインを頂き、娘から預かってきた高屋敷さんの『ドラゴンクエスト』の小説にもサインを頂く。うちの上の娘は、この『ドラクエ』シリーズの小説をハードカバーで買い、さらに文庫本でも買い、計10回以上も読んでいるのだそうだ。これで父親の権威が少し上がる。
     雨のなかをスイスイと家に帰り、鈴鹿のGTレースの結果を英語に直してコンピュサーブに送信。届いていたメールの返事などを書きつつ午前4時からのCART第1戦のライブ放映(スポーツi・ESPN)を待つ。金曜日にクラッシュした服部茂章選手に続き、服部尚貴選手もスタート直後の1周目、アル・アンサーJr.と絡んでコンクリートウォールにハードコンタクト。2人とも自力ではコクピットから出られず、セーフティクルーの手でストレッチャーに乗せられ、救急車に乗せられる。2人とも足の骨折だそうで、やはりマイアミの病院にヘリコプターで送られた。
     その速報をニフティサーブ「オートレーシング・フォーラム」に送り込んで、やっと一息。さあ寝るぞ。

    03月22日
     終日、家に閉じこもって資料読み。

    03月23日
     夕方、新宿に出て紀伊国屋書店本店で架空戦記小説用の資料本を購入。本をリュックサックに入れて背負い、西口のヨドバシカメラまでテクテク。ここでモデムカードとコンパクトフラッシュを購入。松屋で牛丼を食べた後、近くの喫茶店に入り、サブノートパソコンのスロットに入れ、ここにATOK-12の辞書を移す。これは漢字変換中にハードディスクへのアクセスを減らし、バッテリーの使用時間を伸ばそうという苦肉の策だが、けっこう効果はありそう。何よりも変換作業で引っかかることがなくなり、文章の入力が快適になった。メモリーにRAMディスクを設定してもいいんだけど(^_^;)。  その後、高円寺のスナックでマンガ家のながいのりあきさんと待ち合わせ。1時間だけのはずが5時間にもなり、電車もなし。ついでのことだからと、ながいさんと別れた後、別の店にまわって朝まで。松屋で牛丼を食べて帰る。2回連続の牛丼になってしまった。

    03月24日
     原稿が煮詰まってきたので、とくに特記事項なし。ひたすら資料読みと原稿。

    ●本日届いた本と雑誌
    「ヴァレリア・ファイル(BOOK 001)」(谷甲州/中央公論新社(C NOVELSファンタジア)/1,200円):士郎正宗さんのカラーイラストが本文にまで散りばめられたウルトラデラックスなノベルス。中央公論新社のホームページから士郎正宗さんの壁紙用イラストもダウンロードできるそうな。

    03月25日
     ロッテリアに出かけて原稿書き。ATOK-12の辞書ファイルをコンパクトフラッシュに移動したせいか、変換も快適、バッテリーも長持ちするようになった。おかげで仕事する時間が長くなり、疲れる。

    ●本日届いた本と雑誌
    「F1速報」
    「RacingOn」

    03月26日
     すかいらーくとマクドナルドをハシゴして原稿書き。

    ●本日届いた本と雑誌
    「ビッグコミック」

    03月27日
     モスバーガーに行って原稿書き。スパイシーチリドッグが辛かった。バッテリーがたっぷり残っているので、喫茶店に寄り、ここでも原稿。

    03月28日
     マクドナルドで原稿書き。足下が寒くて早々に帰宅。

    03月29日
     編集者から原稿の進み具合を確認する電話。電話で話し合った結果、プロットを変更することになり、第1章を書き直し。

    ●本日届いた本と雑誌
    「触覚メディア」(中島誠一/インプレス/1700円):ニッポン放送に勤務し、ポニーキャニオンに出向している間、ゲームをはじめとするマルチメディア(死語?)事業にかかわってきた中島さんの体験的デジタルメディア論。ただ流行語のように使われているデジタルコンテンツやインタラクティブについて考えさせてくれる本だ。これも中島さんが、実際にパソコン、ゲーム、通信に触れてきたからだろう。
     個人的には、パソコン通信を始めたばかりの頃から中島さんにはお世話になりっぱなし。ぼくがはじめて書いたパソコン通信の本、「実戦! パソコン通信」の中にも、ご夫妻にインタビューさせていただいたり、我が家が一家でアメリカ旅行をしたときには、奥さんのEメール・フレンドを訪ねていた中島さんご夫妻と、ロサンゼルスで合流し食事をしたりしたことも。「トイ・ストーリー」の試写などにも呼んでいただくなど、いつも刺激を与えていただいている。
     しかし、中学生の頃にワイヤレスマイクを作ったのが「情報発信」のスタートだなんて。ぼくもまったく同じでありました。ぼくも小学6年生のときにゲルマニウムラジオを作り、中学に入ったとたんに作ったのが、6WC5(7極混合管)と12A(2極整流管)という真空管を使ってワイヤレスマイク。ラジオを作って「受信」することよりも、圧倒的に「送信」の方に興味があったわけです。
     田舎のことゆえマイクロホンなど手に入らないので、ゲルマニウムラジオに使っていたクリスタルイヤホーンを明治のマーブルチョコレートの筒に入れ、湿気防止用にガーゼを輪ゴムで止めたものがマイクの代用品。これで家の5球スーパーに向けて、電波を飛ばして遊んでいたものです。
     しかし、ワイヤレスマイクの出力では厭きたらず、次に作ったのが、終段に6AR5というミニチュア管を使った出力5ワットほどの送信機。隣の家のおじさんから借りた短波も受信できるトランジスタラジオを抱えて自転車で市内を走り回り、どこまで電波が飛んでいるかを確認したものでした。もちろん電波法違反です(^_^;)。あとでハムの免許を持っている中学の先輩に試してもらったら、隣の山梨県のアマチュア無線家と交信できました。アンテナは、4メーターの公道の上空を横切って、お寺の塀の中にある大木のてっぺんまで引っ張ったもの。こんなことをしても、どこからも怒られることもなく、のんびりした時代ではありました。

    03月30日
     自宅で、ひいひい原稿書き。特記事項なし。

    03月31日
     うーん……、書き下ろし原稿が煮詰まっているせいで、もう何があったか忘れた。恐るべき老人力。あ、思い出した。「週刊小説」の原稿を書いてFAX送信した。


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