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1998年3月下旬の日記
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3月21日
下の娘の中学卒業祝いで外食に出かける。連休のせいか出かけた和食レストランは大混雑。30分ほど待って、やっと席につくことができた。
帰宅後、気にかかっていた3月15日付け読売新聞日曜版掲載の阿刀田高さんの連載エッセイに紹介されていた「もう一問の推理数学パズル」に挑戦する。
3月22日
明日からは外出がつづくので、たまっている原稿を一気にかたづける。「ニフティサーブ・マガジン」「週刊小説」のイラストなど。
3月23日
今週末にツインリンクもてぎで開催される「バドワイザー500」を取材するためニューヨークから来日したルイス・フランクの東京案内をするため、正午にセンチュリー・ハイアットに迎えに行く。ノートパソコンのバッテリーが欲しいというので、新宿のカメラ店で探すが、少し古い大型のノートパソコン用のため見つからない。あとで秋葉原で探そうということにして、まずは両国の江戸博物館へ。
ところがホームに降りたとたん「月曜休館」の案内が出ている。しかたがないので秋葉原に戻り、電気街をうろうろして万世で焼き肉の昼食。食事の後は末広町まで歩き、地下鉄銀座線で浅草へ。雷門から仲見世通りを通り、途中のお店でお土産のキモノを買うのを手伝う。浅草寺でオミクジを引いたら「凶」だった(;_;)。浅草寺の謂われなんかを説明してしまったが、よく考えてみたら浅草寺に来たのは1962年、小学校の修学旅行以来だった。浅草寺の由来は江戸関連の本を読んでいたおかげで、何とか説明できた。
浅草から地下鉄銀座線で青山1丁目に移動し、ホンダ本社のショールームを見せ、そこからタクシーでホテルに戻り、住友ビルの上のお寿司屋さんでディナー。「ボニータ」が食べたいとのことだったが、これが何なのかわからない。お店の人が、外国人向けの英語で書かれたメニューを持ってきてくれ、カツオであることが判明したが、本日は品切れ。
まだ時差ボケの残るルイスをホテルに送り、電車で帰宅……の予定が高円寺で途中下車。馴染みの店に寄って、久しぶりに英語を使ってオーバーヒートしていた頭を冷ます。帰宅後、背筋がゾクゾクするので風邪薬を飲んで寝る。
3月24日
風邪薬のせいか、グッスリ寝込んでしまい、目が覚めたのは午前10時半。11時にセンチュリー・ハイアットに行って、2日目の東京観光のガイドを努めることになっていたのに……。あわててホテルに電話し、遅れる旨をルイスに連絡。夕刻からはパーティーもあるのでスーツに着替え、西武新宿線、都営地下鉄12号線を乗り継いでセンチュリー・ハイアットへ。こういうときに限って乗り継ぎが悪く、乗り継ぎ、乗り換えのたびに10分ほど待たされる。
今日はルイスの希望で、まず皇居に。新宿から地下鉄丸の内線で霞ヶ関まで行き、日比谷公園内の松本楼で名物のカレーライスの昼食。徒歩で皇居前まで出かけ、二重橋で記念撮影。新人バスガイドの研修らしきグループが何組かいて、ルイスは珍しそうにカメラでパチリ。
地下鉄千代田線と総武線を乗り継いで、再び両国の江戸博物館へ。ここは英語の案内もあるのでありがたい。すごい建物だとビックリするルイスに、これは、ホテルの近くにある東京都庁のビルと同じく、バブルエコノミーのシンボルであると説明する。
江戸博物館内の売店で、昭和13年、昭和17年の東京の地図を購入。当時、東京市電の車掌をしていた母の記憶を掘り起こすための道具にするため。将来、書いてみたいと思っている昭和史を背景にした小説の資料でもある。
両国からホテルに戻る途中、ルイスに日本のレースを見せるため、書店に入ると、平積みになった『帝国海軍奮戦史(1)』が、ゴソッと減っている。売れているのだといいけれど。娘たちも高校生になり、何かと物いりのため、小説には専念できない状況なのであります。
部屋でジャケット&ネクタイに着替えたルイスとヒルトンホテルで開催されたブリヂストン&ファイアストーンの記者会見に。バドワイザー500を前にしてのドライバーたちのコメントなどを聞く。記者会見終了後、ブリヂストンが仕立ててくれたバスで、新宿パーク・ハイアット・ホテルに移動し、ホンダのCARTウェルカムパーティーへ。どちらの会場でも、ベテラン記者のルイスにドライバーやチーム関係者を紹介してもらう。ルイスは、ホンダのパーティーの会場で、カツオの寿司を発見し、ゴキゲン。
会場で一緒になった高齋正さんと一緒に、タクシーでルイスをホテルに送り、ぼくたちは、そのまま高円寺の飲み屋へ。ここで徳間書店の『問題小説』グラビア用の写真取材を受けている磐紀一郎を冷やかすのが目的。そこに編集プロダクションのKさん(名前は出してあげない)とカラオケ会社のTさんがやってきて、ワイワイガヤガヤ。さらに1軒、別の店をまわり、高齋さんと一緒にタクシーで帰宅。今日は昨日ほど英語による頭のオーバーヒート感はなかった。昨日1日でかなり慣れたのかもしれない。
3月25日
今週は、今日1日しか仕事ができないので、必死に仕事。結局、朝までかかる。しかし、2日間連続で都内を歩いたせいか、足が筋肉痛だ。情けない。
3月26日
睡眠3時間で午前9時過ぎ、日本初のインディカーレース「バドワイザー500」取材のため、栃木県茂木町の「ツインリンクもてぎ」に向けてクルマで出発。外郭環状線が混んでいて、さらに、もてぎの北ゲートに向かう道がわからずウロウロしたおかげで、もてぎ到着は午後1時。北米メルセデスの広報担当者をはじめ、多くのアメリカ人がコンピュサーブにつなげないで困っているとSOSがあったため、昨日、作成しておいた資料を配布してまわる。大半の人は、先に到着していたコンピュサーブ・メンバーの記者の手助けで、なんとか接続できていたようだったが。そのほかにも日本人記者たちのパソコンのセットアップなどで、練習走行を見ている暇もなし。
初日のタイムなどをまとめてコンピュサーブ「モータースポーツ・フォーラム」とニフティサーブ「オートレーシング情報フォーラム」に掲載し、茂木町の隣りにある市貝町の市塙というところにあるビジネスホテルへ向かう。しかし、真っ暗な道を地図を見ながら進むも、距離感がわからず、不安になって茂木の町中で酒屋さんに飛び込み、道を教えてもらう。
「この先の4つ目の信号を右折して、踏切を越えたら、あとは直進して2つ目の信号が目的地の市塙の駅」と教えられて、その通りに進む。最初の4つ目の信号は、すぐにわかるが、その次の信号が走れども走れども出現しない。やっと1つ目の信号を見つけたものの、どうも不安で、脇にあったケーキ屋さんに道を尋ねる。そうしたら、目的のホテルは、もう目と鼻の先だった。
ホテルに着くと、同宿の山川さん(ニフティサーブ専用通信ソフト「Avalon」の作者兼「オートレーシング情報フォーラム」のアメリカ情報担当者)が、熱を出してうなっていた。朝から何も食べていないというので、ホテルの隣りにあった回転寿司屋に引っ張り出し、そこで夕食。そこ以外には食べ物屋さんはなし。
夜遅くなってから同じ部屋(和室)に泊まる「オートレーシング・ファン・フォーラム」のシスオペ北島さんとフォーラムメンバーの芳賀さんが到着。ビールで酒盛り。芳賀さんは、93年はぼくと一緒に、94年は山川さんと一緒にインディ500を観戦している人。自分でもレースをしている。
3月27日
ホテルで朝食をとった後、2台のクルマに分乗して、もてぎへ。しかし雨のため、すべてのスケジュールがキャンセル。明日の決勝レースのスタート順位は、昨日の練習走行のタイムとなる。することがなくなり、サーキット内にある完成したてのホンダ・コレクション・ホールへ。鈴鹿サーキットで分割展示していた自動車、バイク、レーシングカーなどを一同に展示してある。
アメリカのカニンガム自動車博物館やイギリスのドニントン・レーシングカー博物館も行ったことがあるが、それらの有名博物館も比較にならないほど立派な施設。おそらく世界一の規模だろう。しかも動体保存してあるものが多く、秋に、もてぎで開催されるホンダ50周年記念イベントでは、高橋国光、ジョン・サーティース、ネルソン・ピケ、ゲルハルト・ベルガーといったホンダ車で戦ったドライバーたちが、かつての愛車に乗って走るらしい。
腕時計の電池が切れてしまい、娘のを借りている状態だったので、ここで自分の腕時計を1つ購入する。
プレスルームに戻ると松田秀士選手がいたので、しばし、お喋り。松田選手は、明日のウォームアップのタイムでスターティンググリッドが決まると思っていた……。
午後4時過ぎにホテルに戻ると、一足先に帰ってきた3名の同宿者は、町営の温泉に行ってきたそうで、そろって布団に潜り、昼寝の最中。夕食はホテルでとり、午後10時には就寝。実に健康的な生活だ。
3月28日
午前5時に起床し、朝食もとらずにサーキットへ。交通渋滞を警戒したが、周囲はまったく静かなもの。サーキット内で朝食に、うどんを食べる。
今日は、グランドスタンド上のプレスルームでレースを観戦。速報をコンピュサーブに送る。しかし、ウォームアップを高いところから1周27秒ほどで周回するマシンを見ていたら、目が回って船酔いしたような気分になった。
コンピュサーブ、ニフティサーブへの速報は、NTTドコモのデジタル携帯電話を使っていたのだが、レースのスタート直前、通信量が多かったのが原因か、使用不能となる。スタンドの席に座って中継を……と思っていたのだが、とても無理そうなので、プレスルームの電話を使うことにした。
レースは体調を崩し、朝から食べたものを吐いていたというメキシコ人ドライバーのエイドリアン・フェルナンデスが優勝。レイホールも派手なクラッシュを見せたが、ホイールベアリングのトラブルだったらしい。
帰りは1人で午後5時半頃サーキットを出たが、狭い道をたくさんのクルマが進むので、ふだん40分くらいのサーキット〜常磐道水戸インター間が2時間半以上かかる。おまけに常磐道も大渋滞で、トイレが我慢できずに、水戸インターのすぐ先にある友部サービスエリアで休憩。事故渋滞らしいので、クルマの中でニフティサーブにアクセスして時間つぶし。家に着いたのは午後11時近く。帰宅後はF1ブラジルGPの速報を手伝うものの、午前4時には眠気を堪えきれずにダウン。
3月29日
午後、もてぎから東京に戻ってきたルイスから電話。新宿でサヨナラ・ディナーをすることになり、夕刻、西武新宿線、都営地下鉄12号線を乗り継いでセンチュリー・ハイアットへ。「カツオのタタキ」を食べたいというルイスのリクエストで、住友ビルのネボケ(土佐料理)へ。冷酒とコース料理でディナーを楽しむ。
F1ブラジルGPがあるので、ひとりで六本木へ出かけるというルイスと別れ、早々に帰宅し、パソコンの前に張り付き、深夜、テレビの生中継終了後、ニフティサーブ「オートレーシング情報フォーラム」に結果の速報を入れる。ところが久しぶりの速報担当と眠気とで、間違いばかりしでかした。情けない。
3月30日
仕事モードに戻らないといけない。小説雑誌の編集者に見せてといわれていた時代小説の原稿に手を入れはじめるが、だいぶ前に書いてあったものなので、ついアラが見えてしまい、書き直しばかり。とうとう構成まで変更することになった。こりゃ、だいぶ時間がかかるぞ。
3月31日
喫茶店に出かけ、今月末に締切の来る新連載小説の準備で資料を読みながら年表を作る。舞台は1930年代のヨーロッパ。内容はナイショ。
帰途、古書店に寄ると自分の本『灼熱の走路』が……。可哀想になって購入する。
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