すがやみつるマンガ歴
  • 1950年、静岡県富士市生まれ。幼稚園に入る前からまんがを読み、まんがで文字を覚える。自作のまんがを描き出したのは小学6年生のとき。「まんがのかきかた」(“手塚治虫”監修/秋田書店)の影響。その一方でラジオ作りにも熱中し、真空管と格闘の日々を過ごす。
  • 1965年、中学3年の夏休みに「“マンガ家入門”」(“石ノ森章太郎”著/秋田書店)を読んで、何がなんでもまんが家になろうと決意。高校の受験勉強のかわりにまんがを描いて石ノ森先生に送るが返事なし。しかたなく高校に進学。
  • 1966年、高校1年のとき、小学館から発売されていた雑誌「ボーイズライフ」の読者欄で「墨汁三滴」というまんが同人誌が会員を募集しているのを知り、あわてて原稿を応募。会長の“ひおあきら”から一度は入会を拒否されるが、補欠募集に再応募してめでたく会員となり、以後、墨汁にまみれた青春を送る。“河あきら”も同じ同人誌出身。まんが専門誌「COM」で同人誌奨励賞をもらう。
  • 1968年の夏休み、高卒後、劇画家の先生のアシスタントになることが決定。「三億円事件」のあった直後の冬休みから練馬区東大泉にアパートを借りてアシスタント生活に入る。
  • 同人誌の時代
    肉筆回覧誌「墨汁三滴」
    肉筆回覧誌「墨汁三滴」
    アシスタントと
    編集者の時代
  • 1969年3月の高校の卒業式も徹夜明けのまま新幹線で郷里との間をトンボ返りという状態。しかしアポロが初の月面着陸をした7月、先生の仕事がなくなりアシスタントをクビになる。しかたないので、一緒にアシスタントをしていた同人誌仲間の“細井ゆうじ”の実家(三鷹市)のお菓子屋さんを手伝いながら居候させてもらう。11月、まんがを主体とした編集プロダクションに就職。豊島区東長崎にアパートを借りる。
  • 編集プロでは、講談社、光文社、秋田書店、少年画報社などの雑誌、単行本の編集を担当。「巨人の星」「あしたのジョー」「サインはV」「サイボーグ009」「ワイルド7」「天才バカボン」などのコミックスも編集。スカートめくりが社会現象となった“永井豪”氏の「ハレンチ学園」についての識者のコメントを集める仕事、大阪万博の子供向け公式ガイドブックの編集なども担当。
     この間に「COM」に4コママンガが掲載される。生まれて初めて原稿料(500円)をもらった。【「COM」に掲載された4コママンガ
  • 1970年、光文社の「女性自身」でスタートした劇画ページの編集(原稿取り)を担当。五木寛之氏の北欧小説を松本零士氏が、同じく「海を見ていたジョニー」を“宮谷一彦”氏が「劇画化」(この頃は劇画ブームで、ストーリーまんがは、すべからく劇画とされていた)。「海を見ていたジョニー」の連載途中で“よど号ハイジャック事件”が起こり、連載を1回休んで「緊急事件劇画よど号乗っ取り!」を宮谷氏が担当。翌週から「海を見ていたジョニー」の連載が再開されるも光文社がストライキに入り「女性自身」も休刊。これを機会に編集プロを退社。編集プロで原稿取りをしたときに知り合った“ジョージ秋山”氏から誘われ週1回のアシスタントに。「ざんこくベビー」「デロリンマン」などを手伝いながら、他の劇画家の先生たちのアシスタントもする。「女性自身」の小説の劇画化の仕事で中間小説雑誌を読むようになり、娯楽小説の面白さに目覚める。
  • アシスタントの収入が増え、仕送りまでしてしまう状態になり、これでいいのかと悩んだ挙げ句に従兄弟が始めた芸能プロを手伝いながら自分のまんがを描くことにする。大手芸能プロでマネージャーをしていた従兄弟は、自分でスカウトした“小林麻美”を連れて独立したばかりで、他に数人の役者さんを抱えていた。テレビ局に台本取りにいったり、所属の役者さんが「てっぱる」(仕事が重なってしまうこと)と代わりに本読みや立ち稽古をやらされる。レストランのボーイ役の代役をしたときは、川崎敬三さんを相手に「“アペリティフ”は何にいたしましょうか?」というセリフが一言。このとき代役をした役者さんが、後に「ゴレンジャー」で初代キレンジャーを演ずる“畠山麦”さんである。
  • しかし自分のまんがは一向に描けず、このまま芸能プロの見習いマネージャーになろうかと思っているときに、事務所を支えるはずだった小林麻美が、テレビCMの撮影中にスキーの事故で重傷を負い、その結果、事務所も解散。途方に暮れながら田舎に帰ると、遠縁の大学を卒業したばかりの人と街でバッタリ。喫茶店で自分のまんがが描けない悩みを話すと、その夜、文化人類学を学んでいた大学時代に買ったという柳田国男全集をもってきてくれる。“水木しげる”氏の作品の元は、ここにあるという。これが縁で“古代史”関連の本を読みふけるようになる。発売になったばかりの“半村良”氏作「石の血脈」の影響も大。
  • 東京に戻るも仕事はなくパチンコで生計を立てながら“読書”に明け暮れているとき、石森プロに事務員として就職していた同人誌仲間の女性から、仕事を頼みたいという電話。「仮面ライダー」「原始少年リュウ」「変身忍者嵐」「さるとびエッちゃん」「好き好き魔女先生」などが一挙にテレビ化されて超多忙になってしまった石ノ森先生の事務所に来るマーチャンダイジング商品のイラストなどを手伝うことになる。
  • 浪人の時代
    石森プロの時代
  • 1971年、講談社で創刊された「テレビマガジン」に「仮面ライダー」のまんがを連載開始。アクションシーンがうまく描けず、石ノ森先生に下絵を入れてもらいながらの連載開始。翌1972年には「冒険王」で「新・仮面ライダー」の連載をスタート。テレビ人気のせいで「仮面ライダー」だけで「冒険王」(月刊の本誌以外に別冊付録、別冊、増刊などにも連載)、「テレビマガジン」、「ディズニーランド」などに毎月200〜300ページも描くことになる。このほかに「人造人間キカイダー」や「がんばれロボコン」などの連載も始まり、眠気覚ましの薬を友とする生活となる。毎日、2〜3本、眠気覚ましのアンプルを飲んでいたら、ついに近所の薬局では、身体に悪いからと売ってくれなくなる。その直後に、この薬が成分の問題で発売中止になったという記事が新聞に出てビックリ。
  • 「仮面ライダー」の縁で「月刊少年チャンピオン」に「ベンハー」「ダーティーハリー」などの映画のマンガ化作品を掲載。旺文社の「中一時代」に初のオリジナルまんが「おれはタカの子」を掲載。事故で若い衆を死なせ、高所恐怖症になり、酒におぼれるようになってしまった鳶職の父と息子の話。これが好評で、以後「中一時代」では「父子物」の人情噺ばかりを描く。近くの女子美術大学に通っていたキャンディーズの美樹ちゃんのお姉さんに頼まれ、卒業制作の写真のモデルになる。
  • 石森プロから頼まれたアマチュア無線用アンテナの広告イラストを描いて、そのギャラでアマチュア無線用のトランシーバーを購入し、高校時代に免許を取得していたアマチュア無線を始める。初めての「ハローCQ」に応えてくれたのが、20年後に「小説現代新人賞」を受賞して作家になった“薄井ゆうじ”さん。この頃はイラストレーターだった。真空管世代でトランジスタやICを使った最新のエレクトロニクス事情がわからず、やはり無線で知り合った“中学生”に教えを乞う。彼らに案内されて秋葉原の裏道にも詳しくなり、その影響で“マイコン”にも首を突っ込んで行く。
  • 1976年、隔週誌「少年アクション」(双葉社)に初のレースまんがを「構想1年」という触れ込みで巻頭カラーで連載開始。翌号で雑誌が休刊となり唖然。しかし、このまんがの取材で鈴鹿サーキットなどに通うようになり、以後、「テレビマガジン」「月刊少年マガジン」「少年チャレンジ」などでレースまんがを連載するようになる。早い話が“池沢さとし”さんの「サーキットの狼」の柳の下を狙ったもの。少しはまんが家らしくなってきたこの頃に結婚。
  • 子供向けまんがを大量に描き、必死に貯金して、1979年春、オープンしたばかりの西武ライオンズ球場の近く(所沢市)に建売り住宅を購入。引っ越ししたら貯金がスッカラカン。この夏、母校が甲子園に初出場。クレジットカードで借金して応援に出かける。暮れに講談社から出した「ラジコンカー大事典」の印税を前借りし、何とか年越しができそうになるが、その越年資金で“初のパソコン”を購入。BASICのプログラミングに飽きたらず、マシン語にまで手を出す。
  • 駆け出しマンガ家の時代
    『ゲームセンターあらし』
    から
    ビジネス情報マンガへ
  • 1980年、この直前に連載を開始していた「ゲームセンターあらし」のコミックス第1巻が1月末に発売。初版2万5千部が発売日の午前中に売り切れ状態になり、その日のうちに4万部の増刷が決まる。連載していた「コロコロコミック」での人気も「ドラえもん」とトップを争うようになっており、増ページ攻勢で仕事場に泊まり込みの日々となる。その挙げ句に「週刊少年マガジン」で「シェリフ」という探偵まんがの原作も担当。長女が生まれるが、顔を見るのは月に1回くらい。
  • 1982年、1年以上前から企画を持ち込んだまま待たされていた「こんにちはマイコン」を小学館より描き下ろし出版。「ゲームセンターあらし」がアニメになり日本テレビ系で放映。“主題歌”の作詞を担当。
  • 1983年、「ゲームセンターあらし」と「こんにちはマイコン」の2作で第28回“小学館漫画賞”受賞(児童漫画部門)。練馬区南大泉に自宅を新築し引っ越す。この頃より、そろそろと脱・子供まんが家を目指し、「コミックモーニング」で本邦初の証券コミック「“饅頭こわい”」を連載。兜町の話題となり取材が殺到する。
  • 1985年、ビジネスマン向け情報/入門コミック(作品リスト参照)を連発しはじめる。この年、F1情報収集のためパソコン通信を開始。
  • 以後、パソコン通信で文章を書く楽しさを覚え、「日経産業新聞」などにまんがを連載するも、次第にまんがの仕事から離れはじめ、1994年には、ついに念願の娯楽小説作家としてデビュー。まんがの仕事はパソコン入門書関連のネーム(コマ割り、セリフ、構図)をするにとどまる。1996年1月現在、絵を描く仕事は新年からスタートの「日本経済新聞」の連載コラムにつけるイラストを含め、月に5、6枚のみとなってしまった。嗚呼……。(1996/01)

    追記:2002年6月創刊の「トラウママガジン」(略称「トラマガ」/英知出版)にて、久びさの長編マンガ『ゲームセンターあらしA』を連載開始。
    追記の追記:その後も、あちこちの雑誌、Webサイトなどのためにマンガを執筆する機会が増えました。