第百五十回 植木四十四賞 決定発表

   正賞(目覚まし時計)及び副賞一千円

財団法人 大日本文学信仰会


 受賞作

   該当作品なし

■選考経過

 第150回植木四十四賞選考会は、平成二年6月から同年11月の間に発表された諸雑誌、単行本のなかから選ばれた下記五作品を候補作として、平成二年12月24日午後6時より、東京下板橋の居酒屋「つぼ七」において開かれました。
 胃の上庇、曽野洋、松田辺聖子、山串人見の四委員出席(池内正太郎委員は病気のため欠席。書面により回答)のもと、慎重な審議がおこなわれましたが、右記のとおり、受賞作なしと決定いたしました。詳しくは各委員の選評をご覧ください。

▼候補作

「黄身よフライパンの河を渡れ」(徳馬書店刊)  東町重厚

「野良猫ワトソンの名推理」(子分社刊)     白川三郎

「西武池袋線レッドアローの殺意」(冗談社刊)  東村京次郎

「高僧の死角」(冗談社刊)           林村誠一

「巡る糸車殺人事件」(冗談社刊)        怪樫笙人

●選評  (到着順)

  「血も涙もある文章」
                 山串人見

 ささっと一渡り予選通過作品を読んだとき、該当作ナシだと思った。私は、選考委員会というのは受賞作を出すものだと考えている。しかし、そのときの文学的状況にあって、強い作品がないのでは、受賞作ナシもいたしかたないことだと考えている。とくに今回は、予選通過作品が推理小説に偏り、文学の薫りのある作品がなかったことが残念でもあった。いずれの作品も文章が幼いのではないか。
 予選通過作のなかでもっとも面白く読んだのは、宗教法人の事務を長年担当していたという林村誠一さんの『高僧の死角』だった。宗教法人という伏魔殿の内情を伝える一種の情報小説としては楽しめたが、それでも「豪華絢爛な葬式がとどこおりなく進行した」といった類型的な表現が出てくると鼻白んでしまう。このような紋切り型の表現を拒否するところから小説家の文章は始まるのではないか。
『黄身よフライパンの河を渡れ』は、冒険小説というジャンルに属するようであるが、あまりにも劇画的で荒唐無稽すぎる。主人公の卵の黄身にも血が通っていないし、脇役のハムやコショウ、シナチクにも人間性が感じられない。また文章が翻訳調であったのも一考の余地がアルのではないか。
 白川さんの『野良猫ワトソンの名推理』は、場面転換などに古典落語の巧者を思わせる妙があるが、内容が漫画チックすぎてイケナイ。すでに一家を成していることであるし、これから世に出ようとする新しい作家を送り出すのをシュシとする本賞にはふさわしくないのではと考え、強く推すことはしなかった。
 紙数が尽きたのでこれくらいにしておくが、若い作家には、もっと勉強してもらいたい。文章さえしっかりしていれば、将棋の駒や競争馬にも血を通わせ、涙を流させることができるのである。しかし、文房具が喋るような作品は文学とは認めがたいと言っておきたい。

  「視点の死角」
                     曽野 洋

 あのスーダラ小説の祖、植木四十四を記念して創設された伝統ある文学賞の候補作が、推理小説、もしくは推理小説的な作品で占められたことは、実作者の私にとっても嬉しい出来事だった。しかし喜んでばかりもいられないのも事実であった。推理小説では、事件をアンフェアな方法で解決してはならないという作者と読者の間の暗黙のルールがあるからである。今回の候補作の中にも、いくらか、その傾向が認められたのは残念だった。
 流行のネオ本格推理の一篇である『巡る糸車……』の怪樫笙人氏は、ミスディレクション(読者に仕掛けるめくらまし)とアンフェアを混同しているのではないか。また、句読点の使い方や改行のしかたにも疑問が残る。句読点や改行は、人それぞれの好みだと言ってしまえばそれぞれだが、いまの文字嫌いの若者には、このような文章のほうが歓迎されるのであろうか。
 また、冒頭では三人称の客観描写で叙述されていたものが、いつのまにか主人公やヒロインの視点に変わり、それが知らないあいだに客観描写に戻るといった具合に、視点が作者の都合に合わせて動いている点が気になった。トリックは独創に富むものであり、犯人をつきとめるための伏線も効果的に張り巡らされているだけに、この疵が惜しまれる。
『西武池袋線レッドアローの殺意』は、すでに人気シリーズとなっている四万十川警部の活躍する「トラベルミステリー」だが、東村氏は、主人公を活躍させたいがために、警察という組織に甘くなっているのではないだろうか。刑事が単独で美貌の人妻と捜査旅行をしたり、警視庁の刑事が他県の事件を解決してしまったりというご都合主義が目だつのが気になった。また、句読点の多用が気になるのだが、このほうが、今の読者には喜ばれるのであろうか。
『高僧の死角』について他の委員から指摘のあった類型的な文章という点は、私には、さほど気にならなかった。それは、この作品の主人公が、宗教法人の事務員として働くかたわら、機関紙の編集もしており、その主人公の手記というかたちで記述されているからである。新聞などでは、スペースの都合などもあって、文章が定型化するのはいたしかたないことであり、文学的な文章であったなら、かえって不自然になってしまったであろう。しかし新聞記事も書く主人公であるならば、「検死、検視、検屍」などの用語は、正しく使い分けてもらいたいものである。
 いずれの作品も、水準以上ではあるが、伝統ある賞にふさわしいかという点になると、納得できないところがあり、該当作なしという他の委員の意見に賛成せざるを得なかった。

  「ハラハラドキドキ」
                   松田辺聖子

『黄身よフライパンの河を渡れ』(東町重厚)夜中に読み始めたら止まらなくなってしまい、徹夜になってしまった。オンドリとメンドリの両親と、兄弟の卵をフライパンに殺された卵の黄身の復讐がテーマとなった作品だが、その手口があでやかで、電気鋸でフライパンを切り刻むなど復讐の方法は残忍だが、読後がとてもさわやかであった。一見、乱暴な劇画のように見えるが、その実、国家とは、民族とは、愛とは、憎しみとは、といった主張が、ずしんと胸の底に残るのである。ジェームス・ボンドなどが好きで翻訳を読みふけっていた私だが、日本にも、ついにこのような作品が誕生したかと感動し、授賞に一票を投じたが、賛同を得られなかった。かえすがえすも残念で、うちのスヌーの毛をむしってしまったほどであった。

  「『巡る糸車……』を推す」
                        池内正太郎

 私は時代小説を専門に書いているが、ミステリも好きである。したがって、今回の選考は、
「たいへん楽しませてもらった」
〔西武池袋線レッドアロー号の殺意〕は、元祖トラベルミステリの作者の手になるもので、
(手慣れている)
 のであった。
 さて……。
 この作品は、推理小説というよりも、警察小説としてのおもしろさがあるが、江戸時代にも〔盗賊改方〕と〔町奉行〕には縄張りがあった。おなじように、現代の警察にも、縄張りがあるのではないか。私には、主人公の縄張りを超越した行動が、
(腑に落ちぬ)
 のである。
〔巡る糸車……〕の作者は、わかい人らしいが、舞台となった明治時代の東京のようすを、
「いきいきと伝えている」
 謎の解決にも首肯できた。
 この作品が完全であるとはおもわないが、将来を考えた場合、やはり、
「この作家がいちばん」
 と、書面で伝えさせていただいた。
 ただ、候補作は、他の回にくらべると全体的に小粒で、授賞作なしも、
「いたしかたないことよ」
 であった。

(おことわり)

 胃の上委員の選評は、遅筆のため締切日までに到着しませんでした。

                     チャンチャン!

(この文章は、1992年に、ニフティサーブの推理小説フォーラム(FSUIRI)に発表した架空の文学賞選考結果です。けっして本気にしないように。/すがやみつる)


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