Mitsuru Sugaya & Auto Racing
菅谷充/すがやみつる
“東京モーターショー2003
モータースポーツ大賞”
を受賞!!


 菅谷 充(すがやみつる)は、2003年11月5日(水)、千葉市・幕張メッセで開催中の第37回東京モーターショー会場において、今回が第1回となるモータースポーツ大賞を受賞しました。喜びのコメントなどの詳細は、 モータースポーツ大賞のページ をご覧ください。
インディカーレース小説『灼熱の走路』が電子書籍化されました。
詳細:『灼熱の走路』特集ページ
(2006/04)
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■ すがやみつるのレース歴 ■
■1960年代 モータースポーツが身近にあった高校生時代
 ぼくが生まれ育った静岡県富士市は、富士スピードウェイに近いこともあってか、多数のレース関係者を輩出する土地柄でもあった。高校在学中、学校の前の県道でテスト走行をするレース用自動車のあとを軽4で追いかけた同級生は、そのまま、テストをしていたマシンのガレージに入り浸り、高校を中退してレースへの道に進む。テストをしていたのは、その後、ツーリングカーの世界で名を馳せる真田睦明選手。このガレージでメカニックをしていたのが、その後、トリイレーシングをおこす鳥居忠さん。真田選手の乗るクルマ後を軽4で追いかけていき、そのまま学校に来なくなったのが、ぼくと同じ水泳部に所属していた中村誠だった。
 この頃、日本のモータースポーツ界は、トヨタ・ニッサン・滝レーシング(ポルシェ)の三つ巴の激突が話題を呼び、富士スピードウェイの日本グランプリには10万人を超す観客が集まっていた。おそらく日本で最もレースがメジャーだった時代だろう。高校の同級生たちも富士スピードウェイのことを「フィスコ(FISCO)」とカッコつけて呼んでいた。「平凡パンチ」の影響だろう。
 ぼくは「ボーイズライフ」に載っていた写真を見ながらホンダF1のイラストなどを描いて遊んでいたが、レースとの関わりは、これくらいのものだった。
■1975〜1980年 レースマンガの時代
 1975年の秋、自動車のイラストレーターを志望していた高校の同級生に、かつて鈴鹿サーキットにも勤務していたことのあるデザイナー&イラストレーターの稲垣謙治氏を紹介され、稲垣氏の原作によるレースマンガの企画がスタート。とりあえず勉強のためにモータースポーツ誌を読みはじめ、あっというまにハマる。ハマったきっかけは発表されたばかりのティレル(当時はタイレル)F1の6輪車だったかも。

 1976年、双葉社の「少年アクション」という隔週の少年誌で、稲垣氏原作のレースマンガを連載することになり、テスト原稿を描いては、ホンダSRというホンダの系列会社の人たちにチェックしてもらう。また、鈴鹿サーキットや富士スピードウェイに通いはじめたのもこの頃。自動車の免許は持っていなかったので、鈴鹿へは新幹線+近鉄特急、富士スピードウェイへは東名バス+タクシー(またはバス)が交通手段だった。
 初めてレースを観戦した直後に結婚。ナマでレース観戦をした興奮の余韻冷めやらずの頃で、「マンガでヒット作が出たらレースのチームを作る!」ことを結婚の条件にする。そのせいで結婚1年目の記念旅行も鈴鹿サーキットのシルバーカップレース(フレッシュマン向け)になってしまう。取材も兼ねていたんですが。

 双葉社側からレースマンガ連載の前に、テストも兼ねて、この年のサファリ・ラリーで、日本人初の入賞(6位)を果たした篠塚建次郎選手の物語をマンガにしてほしいとの依頼。三菱自動車本社で記録映画を見せてもらい、また、本社前に展示されていた泥にまみれたままの三菱ランサーを取材し、篠塚建次郎選手が勤務していたディーラーでインタビューもして、それなりにリアルなラリーマンガのネームを作ったつもりでいたら、編集者からあっさりとボツ。「ラリーの好きな読者にはわかるかもしれないが、興味のない読者にも面白く読んでもらうためには、もっとハデハデにしなけりゃダメ」とのことで、ランサーが断崖絶壁の上からジャンプしたり、ライオンやサイの襲撃を受けたり、マサイ族に槍を投げられたり(いま、こんなマンガを描いたら大問題になる)のトンデモ・ラリーマンガが完成。

 とりあえずテストにパスしたのか、いよいよ「構想1年」の触れ込みで、表紙も飾り、巻頭カラーからはじまるレースマンガの連載がスタートするも、次号で雑誌が休刊。連載も第2回が最終回になったのでありました。
 しかし、捨てる神あれば拾う神ありで、「少年アクション」を見ていた講談社「月刊少年マガジン」の編集者が声をかけてくれ、同誌で牛次郎氏の原作によるレースマンガ『走り屋ジン』がスタート。しかし構想は2転、3転して、あっというまにストーリーはギャンブルレースの世界へ。人気も出ないまま6ヶ月で連載は終了。

 次にレースマンガの声をかけてくれたのが、学研から創刊予定だった「どっかんV」(後に「少年チャレンジ」に誌名変更)。稲垣氏から最初の原案だけいただき、スタートしたのが『炎のサーキット』という作品。ツーリングカーやFL500という入門フォーミュラに乗っていた主人公が、やがてルマン24時間やF1に参戦する……というストーリーで、人気もそこそこにあったらしく、連載期間は足かけ3年にわたることになる。

 この間、東映(東映アニメではない)から依頼されたレース・アニメの企画に関わる。その結果、完成したのが『激走ルーベンカイザー』という作品。やはりトンデモな内容になり、こちらの提出した企画は雲散霧消。結局、キャラクターデザインだけを担当したことになる。

 同時期、講談社「TVマガジン」に、スーパーカー&ガンアクション・マンガ『マシン刑事999』を連載。原作つきだったがドタバタアニメ風だった原作は無視し、大藪春彦作品の児童版をめざす。『サーキットの狼』のヤナギの下を狙った作品だが、ガンアクションを加えたのが幸いしてか、人気も上位を維持。コミックス(全5巻)も、そこそこに売れてくれ、所沢に小さな建売住宅を購入する資金となる。1977年F1日本グランプリを舞台にしたり、ポルシェ物語を入れたりと、かなり好き勝手に、つまり楽しみながら描いた作品。すでにこの頃には「オートスポーツ」「オートテクニック」の2誌をむさぼり読むようになっていた。
「TVマガジン」では『マシン刑事999』の連載終了後、『ラジコン探偵団』を連載。電動ラジコンを題材に、レースの世界を紹介する。また、持ち込み企画の『ラジコンカー大事典』(講談社)がベストセラーになった。

 1978年、「小学五年生」(小学館)連載『レスキューZ(ゼブラ)』というカーアクションマンガの取材でF1アメリカ西グランプリ(カリフォルニア州ロングビーチ)へ。市街地コースで四輪ドリフトを連発するロニー・ピーターソンの走りにしびれる(この年、ピーターソンはイタリアGPの事故で帰らぬ人に)。
 この年、「コロコロコミック」に『ゲームセンターあらし』の読み切り作品を発表。次号からレースマンガ『F1キッド』の連載を開始。スタートは1978年のJAF鈴鹿グランプリ。ヨーロッパF2チャンピオンのブルーノ・ジャコメリが主人公の小学生ドライバー帆村一(ほむら・はじめ/フォーミュラ・ワンのもじり)に走りを伝授してくれる。ただしフォーミュラ路線では人気が出ず、途中から童夢‐零などスーパーカー中心の話に変更。京都の童夢にも取材に行き、スーパーカーの童夢‐零で京都の街を走る。ただし、こちらは免許を持っていなかったため、狭い助手席。

 1979年、「コロコロコミック」増刊号に『ゲームセンターあらし』の読み切り(2回目)を掲載。スペースインベーダーを題材にしたこの読切作品がアンケートでダントツのトップになり、急きょ、「コロコロコミック」での連載が決定。そのため『F1キッド』は連載中止となる。
 1980年1月、『ゲームセンターあらし』のコミックス第1巻が、発売と同時に売り切れとなり、同日中に初版以上の部数の増刷が決定。「コロコロコミック」の月刊化とあいまって、メチャクチャの忙しさに。おかげでサーキットに出かける回数も激減、ストレスが溜まるようになる。
■1982年 ストレス解消のルマン
「ゲームセンターあらし」のヒットで忙しくなり、レース観戦ができなくなる。その禁断症状が爆発し、レース小説で高名な高齋正さんに紹介していただいたツアーに乗ってルマン24時間レースへ。このおかげでレース熱が再び燃え上がり、国内サーキットへ出かける回数が増える。
■1983年 富士GCシリーズに参加
 3月、小学館漫画賞受賞。そのご褒美で海外取材をさせてもらえることになり、迷わずに、再度F1アメリカ西GP(ロングビーチ)へ(シリコンバレーも取材)。この年の秋、高校の同級生で富士グランチャンピオン(GC)シリーズに参戦していたドライバーの中村誠にそそのかされ、最終戦に彼のチームにスポンサー兼監督として参加。このレースで高橋徹選手が死亡。

『ゲームセンターあらし』のアニメが香港とマカオで放映されたのを記念して(?)、マカオGPのミラージュ・レースに出場した真田睦明選手の個人スポンサーに。「あらし」のステッカーをマシンに貼ったミラージュのまわりに、現地の子供がぞろぞろ集まってきたらしい。このマシン、テレビカメラを積んだカメラカーになったのに、絵は外に向いて貼られていたため、車載カメラでは裏側しか写らず、ちょっと失敗。
■1984年
 本格的にチーム活動を開始。富士GCシリーズのほか、三菱ミラージュカップ、筑波ナイター9時間耐久レースなどにもチームとして参戦。高齋正さんにチームの名誉監督に就任してもらう。
 サーキットに出かける回数が急増したため、運転免許を取得。近所にあった未公認教習所で練習し、小金井の運転免許試験場で試験を受ける。合格までに70時間も教習車に乗る。
 この年、2回目のルマン24時間レース観戦。
■1985年 パソコン通信スタート!
 ホンダの第2次F1参戦も本格化しているというのに、日本のメディア(テレビ、ラジオ、新聞)は、まるでF1を含む海外レース情報を伝えてくれる気配がない。一刻も早く海外のレース結果を知りたくてウズウズしていたとき、パソコン通信で海外通信社のニュースを読めることを知り、あっというまに通信のできるパソコンと音響カプラーを購入。アメリカのパソコン通信ネットにも加入して英語の世界に飛び出す。
 アメリカのコンピュサーブという当時世界最大だったパソコン通信ネットの自動車レース・フォーラムのメンバーとなり、日本のレース速報を送りはじめる。反対に、ここで得た海外のレース速報を日本のアスキーネットなどに転載。
 秋には「サーキットの狼」の作者、池沢さとし氏を迎えて第1回インターTECレースにも参戦。結果は後輪脱落のため、27周でリタイア。
 この年、3回目のルマン24時間レース観戦。
■1986年 ボイスメールでF1速報のテレホンサービス
 ボイスメールシステムを使ってF1と国内ビッグレースの速報をテレホンサービスで開始。片山右京選手も、このテレホンサービスでF1速報を聞き、F1への情熱を掻き立てていたらしい。
 NTTの調査によると、ぼくが個人でやっていたレース速報のテレホンサービスが、恒常的にアクセス数の多いサービスだったそうで、これが縁でNTTのダイヤルQ2サービスの企画に参加させられたことも。
■1987年 ニフティサーブでレース情報の提供開始!
 日本にF1が戻ってくると同時にバブル経済がスタートし、レースのコストも高騰。この年の途中でレース活動を中止。
 4月、ニフティサーブがスタート。同時にモータースポーツ・フォーラム(現オートレーシング・フォーラム)を開設し初代SysOpに。携帯パソコンを担いでサーキットに出かけ、ニフティサーブとコンピュサーブに速報を送る。
 フランスF3に参戦を開始した片山右京選手を応援する会の副会長に高齋正さんとともに就任。会長には、名前が似ているからと、小松左京氏に就任してもらう。このとき小松氏が右京選手に贈った色紙の言葉:「レースで食えなくなったら、右京・左京で漫才やろう」。
 ボイスメールのレース速報は、日本GPの際にアクセスが集中してビジネスユーザーが使用できなくなり、苦情が多発したため撤退を決める。この年、4回目のルマン24時間レース観戦。
■1988年 フランスで日本のレース速報
 2輪のWGPアメリカGPの会場となるラグナセカ・サーキット広報担当者からの依頼で、鈴鹿サーキットでWGPの日本グランプリを取材。パソコン通信で送った速報がアメリカGPの公式プログラムに掲載される。
 片山右京・留美子夫妻の結婚届に証人のハンコを押す。この年、ルマン24時間レースで、右京選手もドライバーのひとりとなっているクラージュ・ポルシェがクラッシュ、炎上。テレビ朝日の生中継では詳細がわからずパリのパソコン通信ネット「CalvaCom」経由でルマンのコンピュータールームとチャット。クラッシュしたのが右京選手だと教えられ心配したが、直後に無事脱出の連絡。実際には、かなりの時間、炎の中に閉じ込められ、本人は、もうダメと思ったが、なんとか睫毛が焼けただけで助かったとのこと。
 夏休み、家族でアメリカ旅行したついでに招きを受けたラグナセカ・サーキットへ。コースを走らせてもらう。
 この年、フランスのミニテルで提供されているF1情報サービスに、日本のレース情報を送るようになる。そのほかにF1の記録を集めたマールボロのデータベース(イタリア・ミラノ)構築の手伝いなども。

 この年の終わりから全日本F3000に出場を開始するジェフ・クロスノフとパソコン通信のチャットで知り合う。
■1989年 初のCARTレース観戦
 コンピュサーブを通じて面白さを知ったアメリカンレースをナマで見たいと、10月、ラグナセカへインディカーレースの観戦に。前座のIMSA-GTO/UレースでフェラーリF40に乗ったジャン・アレジが激走。ピーターソンのような走りを見るようでしびれる。日本のF3000で走ったときは、ぱっとしてなかったのに。ここで撮影したアレジとF40の写真を翌週の日本GPの帰り、名古屋駅で遭遇したアレジにプレゼント。
■1991年 フランスのレース雑誌で日本のレース速報
 1月、本業でスウェーデン、スイス、フランスに本業の取材。その途中で湾岸戦争が始まる。フランスのアビニヨンに宿泊する機会があったので、名古屋駅で名刺をもらったジャン・アレジの家を訪ねるが、フェラーリ入りが決まった直後で、イタリアに引っ越しした後だった。
 夏、アメリカへ。スリーマイルなどの原発を取材。カリフォルニアでラグナセカの前を通る。
 鈴鹿のWSCレースで知り合ったフランス人記者の依頼で、フランスのレース専門週刊誌「AutoHebdo」に日本のレースリポートを送りはじめる。
『F1スーパー情報ガイドブック』(データハウス)上梓。
■1992年 小説の準備
 夏、夫婦でパリ観光+F1イギリスGP観戦。
 秋、フランスのレース雑誌「AutoHebdo」の記者の日本レース取材を手伝う。
 冬、小説を書く準備のため、オートレーシング・フォーラムのSysOpを退任。ただし、スタッフとして情報掲載の手伝いは続行。鈴鹿サーキットなどの年間取材パスも返上。
■1993年 インディ500観戦
 5月、インディカーレース入門書『インディカー(秘)講座』(データハウス)を上梓。その勢いでインディ500を初観戦。この年、F1からCARTに転向したナイジェル・マンセルが、あわやのところで優勝を逃す。
 8月、ニフティサーブ・オートレーシング・フォーラムのメンバーたちがネットに発表した小説、リポートなどを集めた異色F1書籍『F1天国』を上梓。
 この年、小説の持ち込みを開始。フランスの雑誌の依頼でF1日本GP取材。その翌日、初の書き下ろし小説を依頼される。
■1994年 小説家デビュー
 小説に専念するため、サーキットの取材パスを返上。ついにサーキットに一度も行かない年となった。
 6月、航空戦記アクション小説『漆黒の独立航空隊』が発売され、作家デビューを果たす。この年、計3冊の小説を出版。
■1995年 早くもレース小説を
 F1雑誌「F1速報」でF1レース小説『龍の伝説』の連載が決まり、再び鈴鹿サーキットへ。FJ-1600の取材。久しぶりにジェフ・クロスノフに会うが、これが最後の対面となる。
 9月、『龍の伝説』の取材のため、イギリスのオールトンパーク・サーキットに英国ツーリングカーレースの取材。前座のフォーミュラカーレースに多数出場しているF1を目指す若い日本人ドライバーを取材するため。
 10月、インディカー小説『灼熱の走路』出版。第2部が12月に発売される。
 フランスのF1雑誌の依頼で、パシフィックGPと日本GPを取材。小説の締切が重なりパニック。
 12月、栃木県茂木町に建設中の日本初のオーバルコースを持つ「ツインリンクもてぎ」の工事現場を見学。

■1996年 インターネットで日本発の英語版レース速報
 1985年からパソコン通信ネットのコンピュサーブ、フランスのミニテルで続けていた日本のレース速報をインターネットにも拡大し、「Japanese Racing News」をスタート。もちろんオール英語。高齋正さんも英文コラムを寄せてくれる。  ジェフ・クロスノフがカナダ・トロントのCARTレースで事故死。
■1997年 ピットから見たF1
 片山右京選手の招きでF1ベルギーGPに出かけ、ミナルディのピットからレースを観戦。帰途、ローマにまわり、戦車競争がおこなわれた闘技場の跡を見る。
 CS放送のスポーツi・ESPNでCARTレースの解説を担当(1998年まで)。
 インターネットでの日本のレース速報(英語版)は、フォーミュラ・ニッポンや全日本GT選手権のサイトが英語版も提供するようになったため、役目を終えたと判断し、この年の終わりに終了。
■2000年 インディ500のテレビ解説はじまる
 CSの「GAORA」で「インディ500マイルレース」の解説をはじめる。
 @niftyオートレーシング・フォーラムのサイト構築を手がける。
■2001年 パソコン通信からインターネットへ
 motorsports.nifty.comのサイト構築を手がける。
■2003年 戦記小説の皮をかぶったレース小説
 motorsports.nifty.comのスタッフを退任。
 10月、4年がかりで書き上げた仮想歴史レース小説『旭日のGP』を上梓。
 11月5日、東京モーターショー会場でモータースポーツ大賞受賞。
■2004年 サーキット通いを再開
 4月、ツインリンクもてぎでインディ・ジャパン観戦。取材などというヤボなことはせず、袋田温泉と大洗の海鮮グルメをセットにした由緒正しい熟年レース観戦。
 5月、今年も「GAORA」でインディ500のテレビ解説。雨のため生中継8時間超でヘトヘト。
 6月、ホンダのインディ500制覇を記念して(?)、自作インディカーレース小説『灼熱の走路』を無償公開(無償公開は終了しました)。
■2005年 大学生活優先のためインディ500のテレビ解説をおりる
 レースは見るだけの生活に。ただし大学では「安全人間工学」を受講。レポートに1994年F1サンマリノGPにおけるアイルトン・セナの事故死をとりあげる。
■2006年 『灼熱の走路』電子書籍に
 インディカーレース小説『灼熱の走路』が電子書籍として発売になりました。詳細はこちら
「GAORA」のインディ500解説に復帰。
■2007年 インディ500の解説だけ続行中
「GAORA」のインディ500解説を今年も担当。雨が降ったとき、事故が起きたときのイエロー要員です。
■2009年 インディ500の解説は終了
 大学院に進学した関係で、インディ500のテレビ解説は、昨年限りでやめさせていただきました。修士論文を書き上げるまで、しばし学業が最優先になります。
■2012年 鈴鹿サーキット50周年イベントで「モータースポーツを作った人たち」の一人に選ばれる
 学業が忙しくてレースはテレビ観戦が中心になっていましたが、鈴鹿サーキットの方から連絡をいただき、記念イベントに出かけてきました。そうしたら、そこでプレスの方につかまってインタビューを受け、その内容がF1日本グランプリの公式プログラムに掲載されました。
■ レースアルバム ■
1977年F1日本GP/フェラーリの残骸
■1977年日本GP決勝レースで観客の中に飛び込んだフェラーリ(ジル・ヴィルヌーヴ)の残骸(警官のいるところ)。
撮影:すがやみつる

1977年F1日本GP/ティレルの残骸
■1977年日本GP決勝レースで観客の中に飛び込んだフェラーリ(ジル・ヴィルヌーヴ)と接触したティレルP-34の残骸。
撮影:すがやみつる

1978年JAF鈴鹿GPの1シーン。
■「コロコロコミック」連載『F1キッド』第1回冒頭カラーページの1コマ。1978年JAF鈴鹿GPから物語はスタート。ゲストで出場したヨーロッパF2チャンピオンのブルーノ・ジャコメリが主人公の小学生ドライバー帆村一(ほむら・はじめ/フォーミュラ・ワンのもじり)に走りを教えてくれるというマニアックな物語。最後の方では童夢に勤務していた小野昌朗氏(現・東京R&D社長)が実名で登場したり……。これで小学生に受けようってのにはムリがあり、まもなく『ゲームセンターあらし』に連載がとってかわられる。
撮影:すがやみつる

童夢RL
撮影:すがやみつる

富士GCシリーズ参戦
■1983年から富士グランチャンピオン・シリーズにチーム監督として参加。ドライバーは中村誠。右は高齋正名誉監督。写真のマシンは1985年から使用したマーチ802改・マツダ13B。中嶋悟→関谷正徳→と乗り継がれた由緒ある(?)中古マシン。
撮影:小木曽良一

今宮純さん
■1985年の富士グランチャンピオン・シリーズ(たぶん)。星野一義、中嶋悟両選手にインタビューするのは今宮純さん。あの頃は、みんな若かった。
撮影:すがやみつる

スクーターレース
■GCドライバーの中村誠からお歳暮に中古のスクーターをもらい、近所のバイクショップ(自動車評論家・国沢光宏氏経営)にナンバーをつけてもらいにいったら、翌日にはガスショック、スリックタイヤのレース仕様に変身。店の前で50メートルほど走っただけで(これが生まれて初めてのスクーター体験)、そのまま千葉のカートコースまで連行され、いきなりレースに出される。すべてバイクショップ・オーナーの国沢氏の陰謀。写真は初レースのとき。3回目のレースで大クラッシュを起こし、整骨院のお世話になる。
撮影:片山留美子(片山右京夫人)

富士GCシリーズ参戦
■1985年、富士グランチャンピオン・シリーズにて。話しかけているのは家族全員が富士のオフィシャルをしている一家の奥さんで、嫁入り前まで、我が家の3軒となりに住んでいた方。
「あんた、みつるちゃんでしょ。わたしのことおぼえてる? あんたが赤ん坊のときオンブして、背中にオシッコかけられたのよ」
 ――だから地元のレースは好きじゃないんだってば……。
高齋正さんが面白がって撮影。

ルマン市内の模型店店主と
■1985年のルマン24時間レース車検場にて、ルマン市内にあるラテンブルーという模型店の店主と。タミヤ製フェラーリF1でピット風景の情景を製作し、フランスで大賞を受賞した名うてのモデラーでもある。1984年に初対面し、体験記をタミヤニュースに投稿。ルマン24時間レースでも役員をしていて、この人と知り合ったおかげでルマンの計時室と直接コンピューターで通信できるようになる。
撮影:?

1987年ミラージュカップ
■1987年のミラージュ・カップ・インターナショナル・シリーズ。ドライバーは中村誠。この年、女性ドライバーを起用してミラージュ・カップ・フレッシュマン・シリーズにも参戦。
撮影:すがやみつる

1987年ミラージュカップ
■1987年のミラージュ・シリーズ。場所は、たぶん菅生。
撮影:?

1987年ルマン24時間レース取材
■1987年のルマン24時間レース。プレススタンドで富士通FM-16πを使って速報の準備。
撮影:?

1987年ルマン24時間レース
■1987年のルマン24時間レース。パドックで寺田陽次朗選手にパソコン通信の説明をするすがやみつる。
撮影:?

AArのIMSA-GTUセリカ
■1988年春、鈴鹿の2輪日本GPのあと、高齋正さんと一緒に富士スピードウェイへ移動し、アメリカのIMSA-GTUで大活躍したトヨタ・セリカを取材。チームはダン・ガーニーのAAR (All American Racers)、ドライバーはクリス・コード(本業は銀行家でコード財団の役員。戦前の一時期に前輪駆動の大型車を設計していたErrett Lobban Cordの子孫らしい)。
撮影:高齋正

1989年F1日本GP(?)
■東芝の日本語版ノートパソコン第1号「DynaBook SS」で海外に送るレースリポートを執筆中。
撮影:?

■レース関連作品リスト■
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