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  • 2001年12月下旬の日記

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    12月21日 福永光司先生の訃報

     朝刊を読んでいたら福永光司先生の訃報が掲載されていた。
     福永先生は、日本における道教研究の第一人者で、北京大学で研究をつづけられていた1988年の秋、一緒に、黄海沿岸地方を旅したことがある。サガテレビの創立記念番組で、佐賀県にもゆかりの地がある「徐福伝説」を考証するための取材旅行であった。リポーターが不詳ワタクシすがやみつる。解説を担当してくださったのが福永先生と、成田から同行した海洋考古学の第一人者・茂在寅男先生だった。
     北京までは茂在先生と二人旅。ここで佐賀から来た地元の人たちと合流して、北京市内や定番の万里の長城、明の十三陵などを見学。その後で福永先生とも合流し、北京からチャーター機で連雲港という黄海沿岸の都市(山東半島と上海の中間くらい)に移動。ここで徐福の生まれ故郷とされている村を訪ねた後、佐賀から来た人たちとは別れ、ぼくと茂在先生、福永先生の三人だけが居残り、徐福の生きた時代に関連する遺構などを訪ねて歩くことになった。
     徐福の生きた時代とは、紀元前三世紀、秦始皇帝の時代である。連雲港からテレビのクルー2人も含めた日本人5人+通訳(南京大学の学生)&旅遊局職員と名目のどう見ても公安関係者+運転手の総計8人で、マイクロバスをぶっ飛ばしながら北上。『史記』にも登場する始皇帝が海を眺めた琅邪台(レーダー基地になっていたため撮影禁止)や、始皇帝の馬を放牧していた渤海入口に浮かぶ芝阜島(目の前が中国海軍の軍港のため撮影禁止)、その名もズバリの蓬莱(煙台の西方)などを取材して歩いたものだった。
     この頃、中国側としては、解放政策を開始したばかりの頃で、山東半島あたりは日本からの観光客を誘致したかったせいか、戦後、日本人が初めて訪れるような場所ばかりだったにもかかわらず、まるで国賓でもあるかのように遇してくれ、毎晩が宴会の連続。上海蟹を食べ過ぎたせいか、ポッチャリ太って帰国した。
     この後半の取材旅行で、福永先生と御一緒したのだが、宿泊施設での食事や一般の観光などは、まるで関心のカケラもなさそうで、何ごとも面倒といった感じで行動までスローモーションなのに、、始皇帝にゆかりの土地で、いまだに移籍が発掘されるという場所などにいくと、突然、目はキラリ、誰よりも早くシャカシャカと歩き出すのである。学者の先生というのは、こういうものかと、ひたすら感心したものだった。
     この取材の成果は、翌1989年の1月に、九州全域で放映され、さらに、徐福に関するシンポジウムも開催されたのだが、ぼくたちが中国に出かけた直後、佐賀では吉野ヶ里遺跡が発掘され、邪馬台国ではないかといった報道に煽られて大フィーバー。佐賀市内の会場で、梅原猛先生の司会によって進行されたシンポジウムも、吉野ヶ里に重点が移り、徐福は、どこかに霞んでしまっていた。
     ぼくは、このシンポジウムのパンフレットにイラストも描いたりしたのだが、どうして、こんな仕事に巻き込まれたのかというと、ついうっかりと、ニッポン放送のN氏に、「将来、徐福をテーマにした伝奇SFを書きたい」と漏らしていたのがきっかけだった。フジテレビ系列のサガテレビが、創立記念番組で徐福を取り上げるという話を聞き込んだN氏が、ぼくのことを思い出して、サガテレビの専務に紹介してくださったのだ。突然、都内のクラブに呼び出されて専務氏と対面し、徐福に関する質問をされたのだが、こちらが、徐福についてよく知っているとのことで、リポーターに起用されることになったもの。
     徐福について興味を抱いたのは、ぼくの生まれ故郷にそびえる富士山の北麓にも、徐福到来伝説が伝わっていることを、地元の郷土史の本で読んだからである。この本を貸してくれたのは、大学生時代、民俗学に熱中し、出羽三山の木乃伊発掘などに明け暮れていた遠縁の高校教師(社会科)だった。その話が面白くて、いまは亡き大陸書房の超古代史本も買いあさり、ついには新婚旅行も、徐福到来伝説の残る和歌山県新宮からスタートし、徐福=神武天皇説のルーツをたどる紀伊半島を縦断、飛鳥を巡るという古代史ツアーとなった。この新婚旅行のルート策定に当たっては、SF作家の豊田有恒先生に相談に乗ってもらったりしたものだった。
     その後も機会があるたびに、徐福伝説をテーマにしたマンガや伝奇SF小説の構想を練っていたのだが、1988年頃、初めてCD-ROMを搭載したパソコン「富士通FM-TOWNS」用に、徐福伝説を題材にしたRPGの企画が通過。中国への旅は、このゲームのストーリーを完成させるための取材でもあったのだ。 ところが諸般の事情により、このゲームの話は雲散霧消。その後、小説のかたちにまとめようと考えているが、いまだに完成できないでいる。この作品を書くために、小説家に転進したといっても過言ではないのだが……。
     福永先生の訃報を知ったいま、改めて、構想を練り直してみようと思う。この作品のプロットを作るため、築地の海上保安庁水路部に出かけ、生まれて初めて海図なるものを買ったりしたのは、もう四半世紀も前のこと。アマチュア無線仲間の海洋学部に通う学生にも協力してもらい、ストーリーを作っていた作品だったのだから……。
     福永先生は享年83歳。つい先日、なじみの飲み屋に寄ったら、ちょうど居合わせたママさんのお父さんが、福永先生の講演会帰りだと話しているのを聞いて、ああ、まだお元気でいらっしゃるんだ……と思ったばかりだったのに。たった1週間のおつきあいではあったが、その後も、多数の著作を読ませていただき、得たことは多かった。日本人の曖昧さ、いい加減さ……といった感覚は、もしかするとタオイズムとも呼ばれる福永先生の専門分野「道教」で説明できるのかもしれない。とにかく、いまは、ただ合掌……。

    12月22日 石津嵐生誕記念パーティーという名の忘年会

     夕方から中野で毎年恒例の石津嵐生誕記念パーティー。つまり、石津嵐さんの誕生日を祝うという名目の忘年会で、もう20年以上も続いている。西武新宿線の武蔵関駅まで歩き、電車で新井薬師駅まで。ここから徒歩で中野ブロードウェイ裏のパーティー会場へ。このところ減少気味の歩数を稼ぐため、こんなルートをとった。
     会場では1年ぶりに会う懐かしい人たちと歓談にいそしむ。司会者は、これも恒例の時代小説作家の宮本昌孝。もう20年以上も、幹事役兼司会をつとめていて、出席していた小説雑誌の編集者も、顎で使われる宮本君を見て、「事情を知らない文芸編集者が、この様子を見たらビックリしますよね」。そりゃそうだけど、年功序列だからしかたない。
     二次会は例によって高円寺へ。その後、新年早々、原画展をやることになった「Galleryノラや」にも寄って、帰宅したのは午前4時。久しぶりに酔っぱらって、たちまちグー!
    パーティー記念写真
    石津嵐パーティー写真1
    高齋正さんと。
    石津嵐パーティー写真2
    本日の主役・石津嵐(磐紀一郎)さん。
    石津嵐パーティー写真3
    石津さんの娘の石津彩とツーショット。
    石津嵐パーティー写真4
    アニメ界の重鎮・石黒昇さん
    石津嵐パーティー写真5
    アニメ脚本の重鎮・鈴木良武さん。還暦祝いの赤いフリースをもらってニッコリ。


    12月23日 原画展の準備

     カミサンと吉祥寺までクルマで出かけ、年末の買い物をした後、ユザワヤで、原画展で原画を展示するためのパネルを購入。このサイズが不安だったのと、贈答品の用事があったのを思い出し、カミサンと別れて電車で高円寺へ。駅前のお茶屋さんで贈答用の品物を発送した後、「ノラや」に出かけてパネルのサイズのチェック。何とかなりそうだ。今日は軽く飲んだだけで、電車に乗って、そそくさと帰宅後、朝までかかって、このサイト用の原画展のお知らせページとDMハガキのデザインを作る。

    12月24日 オアシスのフロッピーが開けない

     旧作マンガ『鳥よ、飛び立て!!』の復刻本に挿入する原作者・石津嵐さんのエッセイ原稿をもらいにクルマで高円寺へ。連休最後の夕方とあって道路はメチャ混み。しかも歩行者天国で、石津さんちの近くまでクルマが入れない。しかたなしに少し離れた場所にクルマを停め、そこまで原稿の入ったフロッピーを持ってきてもらう。
     急いで渋滞のなかを帰宅し、パソコンに読み込もうとするが、これがダメ。古いオアシスのフロッピーで、以前は確かに読めたはずなのに……。で、フロッピーを見ると2HD。前に読み込みができたのは2DDだったはずだが。COAというオアシス→DOS変換ソフトを準備していたのに、これでは作業ができぬ……というわけで、家族とクリスマスイブを祝ってワインで乾杯し、そのまま寝てしまう。

    12月25日 ああ、やはりフロッピーが開けない

     昼間のうちに『鳥よ、飛び立て!!』原画展のDMのプリントをすませ、夜、高齋正さんのお宅まで徒歩で出かけ、高齋さんのオアシスWinが入ったパソコンで、石津さんの原稿が入ったオアシスのフロッピーが読み込めるかどうか確認してもらう……が、やはり、同じ症状が出てダメ。どうもフロッピーディスクそのものが壊れている公算大。しかたないので、明日、石津家にフロッピーを持参し、オアシスに読み込めるかどうかの確認をすることに。高齋さん宅では、お土産にイタリアから取り寄せたというオリーブオイルをいただいてしまう。どうもありがとうございました。

    12月26日 オアシス文書が読めた!

     昨晩、高齋正さんのお宅に持参し、オアシスWinで読めなかったフロッピーを持って、石津嵐さん宅まで。石津さんが使っているのは高齋さんが使っていた古いオアシスなのだが、このワープロで書いた原稿をフロッピーでもらい、うちのパソコンとレーザープリンターで印刷してあげていたことがある。3モードのフロッピーが問題ではなく、保存の方法をDOS互換にすれば読めるはずなのだが……ということでチェックすると、やはりありました「補助ディスク」。この中に「OASYS→DOS」変換のメニューがあり、持参したノートパソコンと外付けフロッピーディスク・ドライブで2DD(720KB)にフォーマットしたフロッピーに原稿を無事コピー。ノートパソコンに読み込んだテキストファイルは、オアシスらしく全行に改行が入っていたが、これも秀丸エディターの「桁折りマクロ」を使えば簡単の除去できる。
     原稿のファイルをノートパソコンのハードディスクと、念のためCFカードにもコピーして、そそくさと退散。急ぎ自宅に戻ると『鳥よ、飛び立て!!』復刻版に入れる書き下ろしエッセイのページの編集作業に入る。ほかに表1、総トビラなどの編集作業も……。明け方、眠気に負けてダウン。

    12月27日 赤坂にて会議

     体調が悪い。どうも風邪らしい。出かけなくてはいけないのに歩くのもダルい。しかたがないので葛根湯を飲んだあと、カミサンにクルマで駅まで送ってもらう。
     西武池袋線、山手線、地下鉄千代田線を乗り継いで、赤坂で待ち合わせたパソコンメーカーの副部長氏と共に、パソコンのマニュアル執筆に関する打ち合わせのため某広告代理店へ。午後6時に会議が終了し、食事でも……ということになったが、風邪でフガフガしているし、『鳥よ、飛び立て!!』復刻版の編集も終わっていないし、明日の朝までに企画書を書いて送らないといけないし……で、夕食は辞退して、そそくさと帰宅。
     しかし、葛根湯が効いてきたのか、行きに比べると体調もだいぶいい。地元の駅に着いてから松屋でチキンカレー・セット(390円)の夕食をとった後、喫茶店に飛び込んでノートパソコンでガシガシと企画書を書く。1時間ほどで書き上がったので、当初はタクシーで帰る予定だったのを、汗を出そうと歩いて帰宅。ちょっと汗をかいたら、さらに風邪の調子は良くなった。昨夜、高齋さんのお宅まで徒歩で往復し、汗びっしょりになって帰ってきた後、すぐに着替えをしなくて身体を冷やしたのがいけなかったらしい。
     企画書をメールで送信した後、『鳥よ、飛び立て!!』の編集作業。マンガのページは娘が編集してくれていたのだが(つまり大半のページ)、一緒に収録する『伊三入道の首』という時代マンガを片起こしでページ割りしていたところ、裁ち切りの具合を見ると、なんと、見ひらき起こし(つまり右ページはじまり)ではないか。あわてて「著者略歴」のページを前に移動し、右と左の辻褄を合わせ、ページノンブルをつけ替える。なんとか完成したのは午前5時。

    12月28日 マンガの原稿を発注

     パソコンのマニュアル・マンガの下絵ができたので、作画を担当してもらう、くまの歩に来てもらう。西武池袋線の駅までクルマで出迎えに行ったのだが、待てど暮らせどやってこない。いつもはバイクで来宅していたのに、たまに電車で来たため、ひとつ手前の駅で降り、待ち合わせ場所を探していたらしい。このおかげで彼をピックアップできたのは予定より1時間遅れ。
     ネームと資料を渡し、ついでのことなので持参してもらったマンガ用の画用紙にコマの枠線をレーザープリンターで印刷してしまう。こんなことができるのもマンガのネームを「PageMaker 6.53J」で作成していたためだ。
     クルマでくまの歩を駅まで送った後、自転車でヤマト運輸の営業所に出かけ、『鳥よ、飛び立て!!』の原稿を発送。帰宅後は、また別の企画書書き。早く小説家に戻りたい。

    12月29日 ゲラ読み&本の買い出し&モータースポーツ・アット・ニフティ忘年会

     午前中、新年早々に提出しないといけない出版企画書を書いていると、宅配便で単行本のゲラが到着。友人が書いたマンガの古本に関する本のゲラで、帯につける推薦文を頼まれたため。マンガ古書の相場の話などが面白く、つい一気読み。途中、いくつか誤植も発見して、そのチェックまでやってしまう。昔、編集者をやったことがあると、ついこんなクセが出てしまう。そのくせ、自分の本の誤植は見つけられないのでありますが。

     夕方から新宿で Motorsports@niftyの忘年会があるので、早めに出かけ、紀伊國屋本店で読みたかった本や企画書用の資料を数冊購入。読みたかったのは『プログラムはなぜ動くのか ●知っておきたいプログラミングの基礎知識●』(矢沢久雄・著/日経ソフトウェア・監修/日経BP社・発行/日経BP出版センター・発売/2,400円+税)を購入。この手の本は、都心の大型書店でなければ購入できないので、出かけたときに……と思っていたのだが、このところ書店に寄る時間も取れなかったのだ。

     購入した本を抱えてファースト・キッチンに飛び込み、エスプレッソを飲みながらページを開く。
     『プログラムはなぜ動くのか ●知っておきたいプログラミングの基礎知識●』は、あちこちの書店なでで、コンピューター書籍、理工系書籍のベストセラートップとなっていた本。内容はプログラマー向けだが、このような本が売れるということは、プログラムがどのように動くのかを知らないでプログラミングしているプログラマーが、それだけ多いということなの……? でも、2ヶ月で6刷も売れるってことは、やはり「パソコンの動く原理、仕組み」が気になって買っている一般のパソコンユーザーが多いせいだと思いますね。で、おそらく読んでみても、理解できないまま終わった読者も多いに違いない。
     こんなときこそ『マンガ版プログラムはなぜ動く』の出番のような気もするでありますが(笑)。『こんにちはマイコン』も、最初の巻が売れたら「ハード解説篇」を描かせてもらえることになっていたのだが、1、2巻ともかなり売れたのに、ハード篇の出版にOKは出なかった。マンガ編集部では、やはり、無理だったんだろうなあ……。でも、日本の未来を支えるためにも、やはり、「パソコンの仕組み」をわかりやすく解説した「マンガ」があった方がいいんじゃなかろうか……。

     時間になったので宴会会場の居酒屋に移動。「オートレーシング・フォーラム」グループのうち、「オートレーシング・ファン・フォーラム」はパソコン通信(TTY)でのサービスを終了することになり、そのお別れ会も兼ねてのもの。ただし「オートレーシング情報フォーラム」は、今後もパソコン通信とWebの両方でサービス続行の予定。
     忘年会に参加したのはフォーラム創設時から5年目くらいまでに会員になったメンバー(つまり1980年代)が中心。みんな、それなりに年齢を重ねています。

     2次会はパスして高円寺に回り、新年早々に原画展をやる高円寺の「ノラや」に移動。石津嵐・彩父子もいて、途中から加わった学術書の編集者も交え、深夜まで歓談しつつ飲酒。彩と編集者をタクシーで送って帰宅後、読書の続き。

    12月30日 ダラダラの1日

     午前中に起きたものの目がショボショボ。どうも眼精疲労のようだ。昨日買ってきた資料も参考にしながら企画書の続きを書くも、目の焦点が合わないため能率が上がらない。しかたがないので思いきって2時間ほど寝てしまう。
     夕方起床して、夕食後はダラダラとテレビ。結局、1日ダラダラ……。

    12月31日 身体がダルい……

     うーん。年賀状もまだ印刷してないのに、身体がダルくて何もする気が起きない。年賀状の前に企画書を書き上げなくてはと、気力を振り絞って喫茶店に出かける。ノートパソコンのバッテリーがなくなるまで原稿を書き、正月用の酒類を買って帰宅。大晦日の夕食は恒例のすき焼き。ダラダラと紅白歌合戦を見て過ごす。


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