実は大友作品も仔細に見てみればわかるのだが、そのリアルさは、描線だけではなく、構図にも及んでいるのである。ものごとを他人に伝えるときには「いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのように」の「5W1H」が大切だとよくいわれるが、大友作品は、これが一目でわかるのだ。徹底的にディテールを描き込む「具象」と、狭い画面を広く見せる構図とによって、登場人物の置かれた状況が「一目でわかる」ようになっているのである。
 大友コミックは、ここまでの画力があってこそ成立する作品世界でもあるのだが、では、そこまでの画力がないマンガ家はどうしたらいいのだろう?
 もっとも多いのは「セリフによる絵の補強」である。高層ビルを描写する場合、大友克洋なら、下からあおった天に突き立つような構図、あるいは上空から俯瞰する構図を使い、絵だけでビルの高さを感じさせてくれる。が、それができない『ゲームセンターあらし』の作者などは、登場人物に、そのビルの高さを「語らせる」のである。
「おおーッ! な、なんて高いビルなんだ!」
「屋上のほうなんて、雲に霞んで見えないぜ!」
 というようなセリフによって絵を補強し、読者にイメージを植えつけるのだ。これに「グオオォォーーッ!」といった擬音まで添えれば完璧になる。
 さらに顕著なのは料理マンガだろう。
「ほかほかに炊きあがった秋田小町。米の粒が立ってるぜ!」(ふんわか……)
「見よ、この赤身と脂肪の絶妙なバランス。これを最初に強火のフライパンで焼き、表面を焦がして旨味を閉じ込める!」(ジュウウゥ〜〜ッ!)
 即興で作ったセリフだが、料理マンガには、こんなセリフが頻繁に出てくるはずだ(カッコ内は添えられる擬音の例)。
 絵をセリフで補強する方法は、何もマンガの専売特許ではない。映画でもテレビでも同じことだが、多用すると「説明セリフ」といって批評家や評論家に嫌われる。
 だが、昨今のテレビ番組、とくにバラエティやワイドショーといった大衆向け番組では、ちょっとでも聞き取りにくいセリフがあれば、それをスーパーによって強調する。それも文字を大きくさせたり、カラフルにしたりフラッシュさせたり。そのしつこさたるや、視聴者を洗脳せんばかりである。
 この昨今のテレビのバラエティやワイドショーが用いている「あざとさ」「臆面のなさ」こそが、本来、マンガが持ち得ていた「パワー」だったはずなのだ。
 しかし、マンガが、批評や評論の対象になり、描き手も批評を気にするようになり、さらには編集者のなかにも「マンガで文化を創造している」という驕った気分が出てきたことで、マンガ本来の「大衆性」が失われ、それが「面白くない」という言葉につながっているのではないか……というのが、ぼくの考えである。
 もちろん大衆娯楽マンガは、その「わかりやすさ」ゆえに、その瞬間のみを楽しめばいい、感動や余韻を後に引くものでなくてもかまわない。雑誌の段階で人気を集め、コミックスも売れるが、読み終わったものは、そのまま屑籠やチリ紙交換、あるいは新古書店チェーンに直行する消費型娯楽メディアである。この点でも、マンガはテレビのワイドショーやバラエティと似ているはずだ。
「マンガが面白くない」という声が増えているのは、マンガが、消費され、消耗されることを恐れるようになったせいではなかろうか。もし、この推測が当たっていれば、それは、マンガという大衆娯楽メディアにとって自殺行為になるのではないか。ぼくは、そんな危惧を抱いている。(文中敬称略)(END)
1.旧コラム一覧
2.i-Modeトップ