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『仮面ライダー青春譜』第4章 アシスタントから編集者へ(16)

●『燃えろ南十字星』に原画で再会

 昭和45年……この頃から、一般週刊誌にもマンガや劇画が連載されるようになってきた。ぼくがときおり取材を手伝っていた『女性自身』でも、劇画の連載を始めることになった。
『女性自身』での劇画連載第1作は、五木寛之氏の小説だった。北欧シリーズの一篇で(「霧のカレリア」だったかな? 記憶がさだかでなくてすみません)、松本零士氏が作画を担当した。そして、このページの編集を鈴木プロが請け負うことになり、ぼくが担当編集者に指名されたのだ。
 この劇画(この頃は、ストーリーマンガだったら、なんでもかんでも劇画にされていた)は、毎週8ページという短いものだったが、松本氏の筆が遅く、毎回、泊り込みをしないと原稿がもらえなかった。
 締め切り時間が過ぎても原稿ができず、とりあえず、ネームだけとりにいく。ネームとは、もちろんマンガのセリフのこと。これを写真植字(写植)に打ち出してもらっているあいだに原稿を進めてもらい、完成した原稿に、その場で写植を貼りつけるのが毎回の恒例になって。

 しかし、ネームだけ入った原稿用紙--それもスケッチブックを切り離した厚い画用紙だ--の上にトレーシングペーパーを重ね、セリフを書き写していくのだが、その字が独特の崩れた字で、さっぱり読めないのだ。松本氏は、ネームだけ入れると、どこかに出かけてしまうため、夫人の牧美也子氏に、読めない文字を教えてもらいながらネームを書き写すことが多かった。
 この連載の担当をしているときに、ぼくは、松本氏の家の応接間で、思わぬものに遭遇した。応接間にあった暖炉のなかに古いマンガの原稿が押し込められているのを見つけたのだが、そこには、なんと、あの「燃えろ南十字星」の原稿があったのだ。そう、小学生のとき、ぼくがマンガを描きはじめるきっかけになった作品だ。
 ぼくは、原稿の完成を待つあいだ、このナマ原稿に読みふけった。零戦が、グラマンが画面の上で躍る『燃えろ南十字星』の原稿は、八年か九年前に描かれたものだったが、このときでも充分に面白く、徹夜の原稿待ちもすっかり忘れさせてくれたものだった。
 ――本当は、マンガを描くために東京に出てきたんじゃなかったのか? それが、マンガの編集をする立場になってしまっている。本当に、これでいいのか……?
『燃えろ南十字星』の原稿を読んでいると、そんな言葉が脳裡に浮かんでは消えた。
 会社では、あいかわらず社長から、「すがやくんは、マンガよりも編集の仕事の方が向いている」といわれつづけていた。あまり何度もいわれると、反抗したくなるのも人情だ。
ぼくは、毎夜アパートに帰ると、また、こっそりとマンガを描くようになった。


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コメント

「まんがNo.1」編集のときに、赤塚と二人で
松本邸へ原稿を取りに伺ったことがあります。
かなり早朝でした。写植は下落合の事務所に
出来ていたんで、二人で貼りこみを始め
ました。

ところが、ネームの枠内に写植が入り切れない
箇所が2~3箇所出てきたんです。
絵を描く段階で、絵の方が優先され、吹き出しは
小さくなり、原画の中に文字は書き込まれていない。

もう、入稿遅れに怒っているトッパンの営業が
来る!赤塚は、「このネーム、余分なところ
切って捨てるぞ。零士もおれたちと同じキャリア
があるのに、自分のネームがちゃんと入る吹き出し
線が書けねえのか!シロウトだぜ」とつぶやいて
いました。(笑)

赤塚の原稿は、編集者にとっては、絶対に楽で
貼りやすいものだったはずです。
手塚先生は、ネームにこだわるあまり
作画中にネーム変更し、写植もドタンバで追加だったり
大変だったんではないでしょうかね。


 ぼくもマンガ家時代、原稿が遅れたことがありますが、本当に切羽詰まったときは、コマ割りもしないで200字詰め原稿用紙にネームだけを書き出し、級数指定までして渡していたことがあります。そのネームが打ち上がる間に、コマ割りをして原稿を描いていました。

 深夜にカラー原稿が上がったときは、担当の新人編集者が、色原稿の入稿をしたことがないとのことで、タクシーでK談社まで一緒に行って、写植指定まで含めた入稿作業を自分でやったこともあります。1年ちょっと前までは、講談社で編集の仕事もしていたので、講談社式の入稿方法もわかっていたものですから。



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