■『仮面ライダー青春譜』第4章 アシスタントから編集者へ(13)
●『少年マガジン』の黄金時代と初めての原稿料
ここで中心になって登場している「少年マガジン」は、この頃が、まさに黄金時代だったといえるだろう。有名な内田徹編集長のもと、「右手にジャーナル、左手にマガジン」、「1ページに1万語」といった名コピーが、次々と登場していた頃だ。
上村一夫氏による笹沢左保原作の『見返り峠の落日』などの股旅モノなど、長編問題読み切りが、続々と掲載されていた。石森先生も、『リュウの道』を連載しながら『仮面ライダー』の前身となる『スカルマン』を発表していた頃だ。
表紙のレイアウトにイラストレーターの横尾忠則氏を起用したのも同じ頃である。
一九六九年暮れの講談社の話題は、一九七〇年の新年合併号(六九年末発売)で一挙に百五十万部を刷ることだった。
七〇年早々には、『あしたのジョー』は、天井桟敷の寺山修司氏の企画で、講談社の講堂にリングを特設し、ジョーのライバル・力石徹のお葬式が執り行われたりもした。
『巨人の星』はアニメにもなって、「父ちゃん!」という声優・古谷徹さんのセリフが流行語になっていった。
このとき「少年マガジン」は、ただのマンガ週刊誌を超え、一種の社会現象ともいえる状態になっていた。その熱気のほどは、バブルの頃、「少年ジャンプ」が数百万部を超す発行部数を誇ったところで及ぶものではなかった。
その熱気があふれる音羽の講談社に、ぼくは、池袋から走っていた都電に乗って、毎日のように通っていた。スポーツ新聞の記者に書いてもらったプロ野球やプロレス記事の原稿をリライトしたり、色原稿の入稿も怒られながら憶えたり。「少年マガジン」の編集部だけでなく、児童部や絵本部といった部署にも出入りした。豪華版のマンガ単行本やマンガを使った絵本の編集をするためだ。といっても、ぼくの仕事のほとんどは、原稿取りなどの使いっ走りだった。
「すがやくん、ちょっと四コママンガを描いてくれないか?」
いきなり社長に言われて、ぼくは、とまどった。社長からは、何度も、「きみはマンガがヘタだし、マンガでは芽が出そうにない。編集の仕事に身を埋めたほうがいい」と、繰り返し言われていたからだ。
「いやね、『COM』に連載してるマンガ家短信のページの記事が埋まらなくてさ、急きょ、そのページの穴埋めしないといけなくなったんだ」
「少年キング」を経て「COM」の編集に参加し、その後、独立してマンガ専門の編集プロダクションを作った社長は、「COM」に連載されている「マンガ家短信」のページも受け持っていた。しかし、社長を含めて総勢四人の会社である。そのうち編集経験があるのは社長も入れて二人だけ。残るは、元マンガ家アシスタントのぼくと経理の女性だけという布陣だった。
社長も営業と編集とで駆け回っているため、ときおり細かい仕事がピンチになることがあった。そのせいで、社長がみずからら担当していた「マンガ家短信」のページが落ちそうになってしまったのだ。
「マンガ家短信」は、毎号、いろんなテーマを決めては多数のマンガ家に電話をかけ、取材した内容を記事にまとめて伝えるページである。これから取材して原稿を書き、そのページを写植で組んでもらって……という手順を踏んでいたら校了に間に合わないのだという。
そこで社長が考え出したのが、二ページを四コママンガ四本で埋めることだった。マンガなら、原稿さえあれば、あとはカメラ撮りして写真製版するだけだから、入稿時間が短くなる。
ベテランマンガ家の井上のぼる氏に鈴木プロ所属の長谷川法世さん、ぼくをこの会社に引っ張りこんだ清つねおさん、そしてぼくの四人が四コママンガを一本ずつ描いて、ページを埋めることになった。
とにかくなんでもいいというので、その頃、好きで読んでいた秋竜山さんのマンガをまねたナンセンス風の四コママンガを描き上げた。そして、すぐに、近所に住む長谷川さん、井上のぼるさんのところに原稿を取りにいく。清さんは、事務所の机でささっと四コママンガを描き上げてくれた。
完成した原稿を、急いで同じ池袋にあった「COM」の編集部に運ぶ。入稿がギリギリになったせいで編集長もカンカンだ。ひたすら謝りながら原稿を渡すと、飛ぶように事務所に逃げ帰ってきた。
まもなく給料日がやって来た。給料袋の中身は、いつもより五百円多い。社長が「こないだの『COM』の四コママンガの原稿料だ」と言った。マンガも給料のうちだと思っていたので、まさか原稿料なんかもらえないと思っていたぼくは、びっくりしながらも、もちろん、ありがたく頂戴した。
その頃、毎日食事に通っていた定食屋の定食が百三十円。五百円あれば三回の食事に生卵くらいはつけられる。こうして、生まれて初めてもらったマンガの原稿料は、胃袋の中に消えていったのだった。
ちなみに、この当時、フトコロがさみしくなると出かけていたのが、池袋東口の大戸屋という定食屋だった。この店のカレーライスは五十円。当時にしても格安の料金で、非常に助かったものである。その後、吉祥寺に、同じ名前の女性も入れるおしゃれな定食レストランができたと思ったら、やがて、あちこちに拡大し、いまでは、ちょっとしたターミナル駅なら、どこでも目にすることができる。その大戸屋の発祥の地が、ここ池袋東口だったのだ。かつての発祥の地には、現在、数店の大戸屋が軒を並べている。
コメント
わたしは今回の頃にうまれた人間です。四コマまんが、カーブの線にかすかに石森タッチが残っているかなという印象をうけました。ギャグについては・・・あー時代ですね時代。
投稿者: MMM | 2005年10月24日 05:46
>MMMさん
ちょうどチクロが禁止されたときだったんです。
絵柄は、秋竜山さんとか、この当時、「少年マガジン」にカットを描いていた永見ハルオさん(講談社ブルーバックのイラストをたくさん描いています)あたりを意識したものです。
この絵がいいから……と、マンガ雑誌からカットの依頼が来るのですが、その顛末は、また後ほど……。
投稿者: すがやみつる | 2005年10月24日 06:49
>永見ハルオさん
ああやっぱり
投稿者: MMM | 2005年10月24日 12:07