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『仮面ライダー青春譜』第3章 マンガ家めざして東京へ(4)

●肉筆回覧誌のつくり方


『墨汁三滴』表紙
『墨汁三滴』の表紙。厚さは5cm。これでも、いつもより薄かった。

『墨汁三滴』会則
会則はアッサリ。名誉会長、名誉副会長、名誉会員の豪華な顔ぶれを見よ。

『墨汁三滴』掲載の拙作
『墨汁三滴』12号掲載の拙作。アシスタントになることを意識して、ストーリーや人物はそっちのけで、背景の練習ばかりしていた頃。

永島慎二先生寄贈のカット
永島慎二先生寄贈のカット。このほかに斎藤ゆずる(ダイナマイト鉄)、江波じょうじ先生のカットも。ほかに石ノ森章太郎、宮谷一彦、江波じょうじ、斎藤ゆずるの各先生が手厳しい批評をしてくださっていた。

 マンガ研究会ミュータント・プロが発行していた同人誌「墨汁三滴」は、石森章太郎先生が発行していた「墨汁一滴」を踏襲した肉筆回覧誌だった。
 肉筆回覧誌とは、マンガのナマ原稿を糸で綴じて製本し、会員のあいだを郵便小包で回覧する方式の同人誌のことをいう。
 いま、コミケで売られているようなオフセット印刷による同人誌はもちろん、コピーでさえも、設計用の青焼きしかないような時代だった。マンガ同人誌といえば肉筆回覧誌――というのが当たり前だったのだ。
「墨汁三滴」は、隔月――つまり二ヶ月に一回のペースで発行されていた。決められた大きさの原稿用紙にマンガを描き、その原稿を編集担当者に送ると、そこで編集と製本の作業がおこなわれ、一丁あがりとなる。
 とはいっても、編集は、そんなに簡単な作業ではない。届いた原稿の裏面に接着剤をつけて貼り合わせ、これを束ねた上で、糸を通すための穴をハンドドリルで開けるのだ。
 厚さは最低でも五センチにはなった。穴を開けるだけでも一苦労で、ひとりで編集するのは無理だった。
 そこで「墨汁三滴」を編集するときは、同人誌仲間が手伝うことになっていた。
 表紙は黒一色のクロス布で、「墨汁三滴」という誌名と号数が、白い糸で刺繍されていた。千葉県東金市に住む小川まり子(のちの河あきら)が、毎号、刺繍を担当してくれた。
「墨汁三滴」が完成すると、東京に住む会員が、石森章太郎先生をはじめ、松本零士、久松文雄、斎藤ゆずる、江波じょうじ、そして後には宮谷一彦といったマンガ家、劇画家の先生がたのお宅を訪問し、批評のコメントを書いてもらっていた。
 それから会員のあいだを巡回するのだが、ひとりの会員が所有できるのは、四十八時間まで。その間に、すべての掲載作品を読み、各作品の感想や批評を書いた上で、次の人に郵便小包で送るシステムである。いまのような宅配便もない時代のことだ。郵便小包だけしか配送の手段はなく、毎号、あわてて荷造りしては、郵便局に駆け込んだものだった。
 東京で会の仲間と会ってからは、「墨汁三滴」の編集を手伝いに出かけるようにもなった。手伝いにいけば、完成したばかりの「墨汁三滴」掲載作品の批評を持って、マンガ家の先生方の家を訪ねることもできる。それが楽しみで、ぼくは、二ヶ月に一度くらいのペースで上京するようになった。
 高三の夏休みには、三鷹市のメンバーの家に泊まり込み、ここでぼくが編集担当となった「墨汁三滴」を完成させた。
 このときも、完成したての「墨汁三滴」を持って、石森章太郎先生はじめ数人のマンガ家、劇画家の仕事場を訪問した。もちろん批評してもらうためである。
 マンガ家や劇画家の仕事場で、プロの仕事を間近に見るたび、いつか、その仕事場の一角で、ベタ塗りをしたり背景を描く自分の姿を想い描くようになっていた。
 こんな状態では、高校の授業などに身が入るはずもない。いちおう高校に通ってはいたが、いつも、心ここにあらず――の状態だった。頭のなかは、すっかり東京に飛んでしまっていた。


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