『仮面ライダー青春譜』 第1章 巨匠との遭遇(4)
●『スーパージェッター』の作者は、さわやか若大将
久松文雄先生のお宅は、松本先生のお宅から石神井公園駅方向にもどる途中にあった。
「少年サンデー」の一九六五年一月一日号で『スーパージェッター』の連載がはじまったときか、その前後の号で、作者の久松文雄先生の横顔が記事のページに掲載されていたことがある。新築されたばかりの自宅の庭で、鉄棒をしている久松先生の写真が載っていたが、年齢は二十一歳と紹介されていた。
玄関のチャイムを鳴らして待つと、すぐに久松先生がドアを開いてくれた。
久松先生は、二年前に二十一歳だったのだから、そのときは二十三歳だったはずだ。ともに昭和十三(一九三八)年一月二十五日生まれで、二十九歳の石森章太郎、松本零士両先生よりも、六歳ほど若いことになる。背も高く、鉄棒で鍛えているせいなのか、身体もがっちりしていて、さわやかなスポーツマンといった雰囲気だった。
「ぼくら」連載の『風のフジ丸』や「少年サンデー」連載の『スーパージェッター』で人気を博した久松先生は、いまは『冒険ガボテン島』を「少年サンデー」に連載しているところだった。
「やあ、ちょうどいいところに来てくれた。いま大ピンチなんだ。ちょっと仕上げを手伝ってよ」
これが久松先生の第一声だった。やはり菅野たちとは顔なじみのようで、声にも親しみがこもっている。
仕事部屋に案内されたぼくたちは、アシスタントの席らしい空いている机に向かうことになった。アシスタントは休みだったらしい。
「ごくろうさま」
仕事場の隅のソファに座っていたスーツ姿の男性が、声をかけてくれた。どうやら原稿待ちしている編集者のようだ。
先生から手渡されたのは、「たのしい幼稚園」(講談社)に連載中の幼年マンガ『キングコング』の原稿だった。二色のカラー原稿で、すでに背景のペン入れも終わり、先生が、絵の具で色を塗っている最中だった。
二色原稿なので、使う絵の具は朱色と茶色だけ。朱色を水で薄めて塗れば肌色になる。茶色はキングコングの毛むくじゃらの身体を塗るのに使われていた。
ぼくたちは手分けして、渡された原稿のベタを塗りはじめた。水彩絵の具で色を塗るため、原稿用紙には画用紙が使われていた。
キングコングが大海原を進む客船で暴れる話で、ぼくたちは、船の胴体や海の波にベタを塗っていった。ベタ塗りとは、ベッタリと濃い色で塗りつぶすことをいう。通常、ベタといえばスミベタのことで、ベタ塗りには墨汁が使われる。カラー原稿の場合は、アカ(赤)ベタ、アイ(藍)ベタ、キ(黄)ベタなどもある。
ぼくは緊張しながら机の上に載っていた筆を借り、墨汁をつけてベタを塗りはじめた。自作マンガの批評をしてもらうつもりだったのに、いきなりプロの原稿を手伝わされることになったのだ。
――ベタがはみ出したらどうしよう……?
そんなことを考えるだけで身体が硬くなり、腕が震えた。
それでも数ページの短いマンガだったせいで、五人で手分けするとベタ塗りは、すぐに終わった。
久松先生は、原稿をぼくたちに回すと、すでに別の仕事に取りかかっていた。『冒険ガボテン島』のキャラクター設定の仕事らしい。アニメの動画用紙に鉛筆でキャラクターを描いていく。まだ『キングコング』の原稿が終わらないうちに、アニメの製作会社の人がきて、キャラクターを描いた紙を受け取っていった。
すぐに久松先生は、ベタ塗りの終わった『キングコング』の原稿をチェックを開始した。右手にはホワイト用の小筆が握られている。
ホワイトとは、ペンの線やベタがはみ出したところを修正するための白のポスターカラーのことだ。ペン入れの段階から、はみ出しなどない状態で描かれていたため、ホワイトを入れる箇所も少なく、仕上げも五分ほどで完了した。
原稿を受け取った編集者が去ると、ようやく原稿を見てもらえることになった。いや、その前に色紙にサインをしてもらわなければ。とはいえ、仕事でお疲れの様子なので、ここでは色紙を一枚にとどめておいた。
リクエストは、もちろん『スーパージェッター』だ。「ぼくら」の『風のフジ丸』のときから久松文雄というマンガ家の名前は知っていたが、「少年サンデー」で連載がはじまったSFマンガの『スーパージェッター』は、絵がきれいなだけでなく、実に精緻で、すぐにファンになった。手塚治虫系の絵柄ではあったが、手塚マンガよりもキャラクターがスマートでカッコよかったのだ。
色紙にサインをもらうと、こんどは原稿を見てもらった。石森、松本両先生に見てもらった原稿だ。
「これじゃ構図に奥行きが感じられないね」
ぼくのマンガを見た久松先生は、松本先生と同じように鉛筆を持つと、ジャングルの木々を描き加えた。それも下からあおったアングルで、梢の部分が極端に小さくなっている。これだけで空間の奥行きと空の高さが感じられるようになった。
コマの枠線で登場人物の脚が切れているところは、人物の位置を上にずらすか、コマを下に伸ばして、足先まできっちりと描くようアドバイスされた。地面に立っていないと不安定になるからだという。いわれてみれば、確かにそのとおりだった。
ベタ塗りを手伝っていたおかげで、とうに窓の外は暗くなっていた。そろそろ夕食の時刻でもあるので、ぼくたちは先生のお宅を辞去することにした。
色紙と原稿へのアドバイスのお礼をいって、玄関から出ようとしたときである。
「ちょっと待って」
といって久松先生が、仕事部屋に引き返した。
すぐにもどってきた先生は、マンガの原稿と、それを入れるための大型封筒を手にしていた。
「わざわざ静岡から訪ねてくれたうえに、仕事の手伝いまでしてもらって悪かったね。お礼がわりに、この原稿を持っていって」
ぼくは目を丸くした。久松先生が手渡してくれたのは、『スーパージェッター』と『冒険ガボテン島』のあいだに「少年サンデー」に連載された『サンダーキッド』というマンガのナマ原稿だったからだ。ギリシア神話を下敷きにしたようなストーリーで、けっこう面白い作品だったが、『ガボテン島』の関係もあったのだろうか、連載は短期で終わっていた。
薄手の模造紙に描かれた原稿には、吹き出しの部分に写植まで貼られている。まぎれもなく正真正銘の雑誌用に描かれた原稿だった。
少年向けのストーリーマンガが新書判コミックスとして売られるようになったのは、この一年半ほど前からだった。少年週刊誌が六十円くらいだった時代に、新書判コミックスは二百円前後。小中学生には、おいそれとは手が出ない高額商品だった。当然、購買層は、小遣いにゆとりのある高校生以上になる。その分、著名なマンガ家の作品、あるいは名作と呼ばれるようなセレクトされた作品しかコミックスにはならない時代でもあった。マンガ雑誌に連載されたマンガが、なんでもかんでもコミックスになるのは一九七〇年代後半になってからのことだ。
「少年サンデー」に連載されたマンガも、自社ではコミックスにならず、秋田書店から刊行されることが多かった。といっても、それは『伊賀の影丸』や『サブマリン707』のような長期連載作品が中心で、短期連載作品がコミックスになることは皆無に近い状態だった。
つまり、大半の雑誌連載マンガは、いちど雑誌に掲載された時点で、その役割を終えたことになる。だから久松先生も気楽に原稿をプレゼントしてくれたのだろう。『サンダーキッド』は、平成に入ってから復刻されているが、雑誌かゲラ刷りから版を起こしたものにちがいない。少なくとも三ページの原稿は、ぼくがもらってしまったのだから。
すっかり暮れた大泉の住宅街を抜けて石神井公園駅まで歩くと、そこで菅野や細井たちと別れ、ひとりで東京駅に向かった。
西武池袋線の電車に乗り、座席についたぼくは、マンガ家の先生方にいただいた色紙と原稿を挟んだスケッチブックを抱え、ニンマリと微笑んでいた。
中学三年生の夏休みに石森章太郎先生の『マンガ家入門』を読んで以来、マンガ家になることを夢見てきたが、この日、マンガ家への距離が一挙に縮まったような気になった。
東京までは、鈍行電車でも片道三時間。いちど出かけてしまうと、東京も、もう、そんなに遠いところではなくなっていた。