『ジブリマジック』(梶山寿子)
『ジブリマジック――鈴木敏夫の「創網力」』(梶山寿子/講談社/2004年11月刊/1,680円)........新聞広告で気になっていた本で、書店で見つけるや、ただちに購入し、一気に読了した。
いまやスタジオ・ジブリのプロデューサーとして、押しも押される大プロデューサーとなった鈴木敏夫さんについて書かれた本である。たぶん、コンテンツビジネスなどに興味のあるビジネスマンが読んだりするのだろうけれど、鈴木さんの真似をするのはやめた方がいい。絶対に無理だから。
ぼくが徳間書店の「テレビランド」にマンガを連載していた頃、一緒に仕事をしていた仲間はみんな、敬愛の意も込めて、「敏夫さん」と読んでいた。当時、「テレビランド」には、もうひとり鈴木さんがいたために、このような呼び名になったのではないかと推察しているのだが、真実は知らない(ちなみに『ジブリマジック』では、「テレビランド」の時代については、テレビ雑誌に在籍していたことが書かれているだけだった)。
当時(1974~76年頃)、ぼくは、マンガ仲間と共同でアパート3部屋を借り、ここでマンガを描いていた。ぼく自身は敏夫さんに直接担当してもらったことはないけれど、ぼくたちはみんな、その仕事ぶりに圧倒されていた。共同の仕事場で一緒に仕事をしていた仲間のマンガ家のひとりが、敏夫さんに担当されていたのだが、実に扱いにくいマンガ家で、よくもまあ敏夫さんは我慢してつきあっているなあ……という思いを抱いていたからだ。
敏夫さんが担当していたマンガ家は、気分が乗らないと仕事ができないタイプで、ネームができないとき、すぐにアパートの自室に引き籠もってしまうのだ。仕事場に来ても、仮眠室の布団に潜ったまま出てこないことがよくあった。
締切になってもネームさえできていない。それが当たり前になっていた。そのたびに敏夫さんは、部屋に引き籠もったマンガ家の部屋に、台所の窓から潜り込んでは、説得を繰り返したり、マンガ家が寝ている布団に潜り込んで、「さあ、起きて、仕事しましょうね」と、まるで子供でもあやすように背中をさすって起こしたり。こうしてなんとかネームを書かせ、原稿を完成させていた。
そのマンガ家は、確かに繊細で扱いにくくはあるけれど、たとえテレビが原作のマンガであろうとも、手を抜くようなことはせず、しかも、どこかリリシズムをかもしだす「いいマンガ」を描いていた。売れることばかりを夢見てマンガを描いていたぼくなどとは、正反対のマンガ家でもあった。それにしても限度はある。おそらく担当編集者が敏夫さんでなかったら、このマンガ家は、とっくに連載を切られていたのではないか――ぼくたちは、よく、そんな話をしていたものだった。
最近、テレビでスタジオ・ジブリのアニメ製作風景が登場することが多いが、遅れたスケジュールを乗りきるため、作業の一部を外注に出したいと、敏夫さんが宮崎駿監督を説得するシーンが放映されたりもする。そんなシーンが出てくるたび、30年前、仲間のマンガ家を説得し、マンガを描かせていた敏夫さんを思い出してしまうのだ。「全然、変わっていないなあ……」と。
そういえば、あの頃、敏夫さんに変なことをお願いしたことがある。小学生時代から大藪春彦小説を愛読していたぼくは、全作品とはいわないが、かなりの作品を読んでいた。その頃、たまたま近所の小さな書店で、書棚の隅に埃をかぶったまま置かれていた作品を買って読んだら、たちまち夢中になった。『汚れた英雄』である。60年代の終わりに出版されていた『汚れた英雄』は全4巻だったが、入手できたのは2巻まで。残り2巻が、どうしても購入できず、敏夫さんに会ったときに、徳間書店から直接購入できないかどうか訊ねてみた。敏夫さんがモデルガンのコレクターだったことも知っていたのも、他の徳間書店の編集者ではなく、敏夫さんにお願いした理由だったように思う。
「用意しておくから会社まで取りにおいでよ」という敏夫さんの言葉に甘えて、新橋の徳間書店まで出かけ、受付で敏夫さんから『汚れた英雄』を受け取った。たぶん、代金は払わずに、いただいてしまったのではなかったか……(ちょっと記憶が不鮮明。このとき、まだ新橋にしか店がなかった吉野家で、生まれて初めて牛丼なるものを食べて、感激したことは憶えているのだが……)。
そのとき敏夫さんは、「すがやちゃん(ぼくは敏夫さんはじめ徳間書店の編集者から、こう呼ばれていた)。大藪さんの小説はね、中卒で集団就職してきて、町工場の2階で寝泊まりしてるような若い子に支えられてるんだよ。そんな子たちが、本棚がわりのミカン箱に大藪作品を並べて大事にしてくれてるんだよね」なんて話をしてくれた。
ぼくは、敏夫さんの話に感じ入りながら、「日活アクション映画や貸本劇画と同じなのか……」と考えたりもした。このときの敏夫さんの言葉は、その後のぼくの娯楽マンガ観、娯楽小説観に、確実に影響を与えている。
それにつけても、『ジブリマジック』に登場する敏夫さんは、30年前の敏夫さんと少しも変わっていなかった。それは、以下の言葉からもわかる。
そのとおり!
いまやスタジオ・ジブリのプロデューサーとして、押しも押される大プロデューサーとなった鈴木敏夫さんについて書かれた本である。たぶん、コンテンツビジネスなどに興味のあるビジネスマンが読んだりするのだろうけれど、鈴木さんの真似をするのはやめた方がいい。絶対に無理だから。
ぼくが徳間書店の「テレビランド」にマンガを連載していた頃、一緒に仕事をしていた仲間はみんな、敬愛の意も込めて、「敏夫さん」と読んでいた。当時、「テレビランド」には、もうひとり鈴木さんがいたために、このような呼び名になったのではないかと推察しているのだが、真実は知らない(ちなみに『ジブリマジック』では、「テレビランド」の時代については、テレビ雑誌に在籍していたことが書かれているだけだった)。
当時(1974~76年頃)、ぼくは、マンガ仲間と共同でアパート3部屋を借り、ここでマンガを描いていた。ぼく自身は敏夫さんに直接担当してもらったことはないけれど、ぼくたちはみんな、その仕事ぶりに圧倒されていた。共同の仕事場で一緒に仕事をしていた仲間のマンガ家のひとりが、敏夫さんに担当されていたのだが、実に扱いにくいマンガ家で、よくもまあ敏夫さんは我慢してつきあっているなあ……という思いを抱いていたからだ。
敏夫さんが担当していたマンガ家は、気分が乗らないと仕事ができないタイプで、ネームができないとき、すぐにアパートの自室に引き籠もってしまうのだ。仕事場に来ても、仮眠室の布団に潜ったまま出てこないことがよくあった。
締切になってもネームさえできていない。それが当たり前になっていた。そのたびに敏夫さんは、部屋に引き籠もったマンガ家の部屋に、台所の窓から潜り込んでは、説得を繰り返したり、マンガ家が寝ている布団に潜り込んで、「さあ、起きて、仕事しましょうね」と、まるで子供でもあやすように背中をさすって起こしたり。こうしてなんとかネームを書かせ、原稿を完成させていた。
そのマンガ家は、確かに繊細で扱いにくくはあるけれど、たとえテレビが原作のマンガであろうとも、手を抜くようなことはせず、しかも、どこかリリシズムをかもしだす「いいマンガ」を描いていた。売れることばかりを夢見てマンガを描いていたぼくなどとは、正反対のマンガ家でもあった。それにしても限度はある。おそらく担当編集者が敏夫さんでなかったら、このマンガ家は、とっくに連載を切られていたのではないか――ぼくたちは、よく、そんな話をしていたものだった。
最近、テレビでスタジオ・ジブリのアニメ製作風景が登場することが多いが、遅れたスケジュールを乗りきるため、作業の一部を外注に出したいと、敏夫さんが宮崎駿監督を説得するシーンが放映されたりもする。そんなシーンが出てくるたび、30年前、仲間のマンガ家を説得し、マンガを描かせていた敏夫さんを思い出してしまうのだ。「全然、変わっていないなあ……」と。
そういえば、あの頃、敏夫さんに変なことをお願いしたことがある。小学生時代から大藪春彦小説を愛読していたぼくは、全作品とはいわないが、かなりの作品を読んでいた。その頃、たまたま近所の小さな書店で、書棚の隅に埃をかぶったまま置かれていた作品を買って読んだら、たちまち夢中になった。『汚れた英雄』である。60年代の終わりに出版されていた『汚れた英雄』は全4巻だったが、入手できたのは2巻まで。残り2巻が、どうしても購入できず、敏夫さんに会ったときに、徳間書店から直接購入できないかどうか訊ねてみた。敏夫さんがモデルガンのコレクターだったことも知っていたのも、他の徳間書店の編集者ではなく、敏夫さんにお願いした理由だったように思う。
「用意しておくから会社まで取りにおいでよ」という敏夫さんの言葉に甘えて、新橋の徳間書店まで出かけ、受付で敏夫さんから『汚れた英雄』を受け取った。たぶん、代金は払わずに、いただいてしまったのではなかったか……(ちょっと記憶が不鮮明。このとき、まだ新橋にしか店がなかった吉野家で、生まれて初めて牛丼なるものを食べて、感激したことは憶えているのだが……)。
そのとき敏夫さんは、「すがやちゃん(ぼくは敏夫さんはじめ徳間書店の編集者から、こう呼ばれていた)。大藪さんの小説はね、中卒で集団就職してきて、町工場の2階で寝泊まりしてるような若い子に支えられてるんだよ。そんな子たちが、本棚がわりのミカン箱に大藪作品を並べて大事にしてくれてるんだよね」なんて話をしてくれた。
ぼくは、敏夫さんの話に感じ入りながら、「日活アクション映画や貸本劇画と同じなのか……」と考えたりもした。このときの敏夫さんの言葉は、その後のぼくの娯楽マンガ観、娯楽小説観に、確実に影響を与えている。
それにつけても、『ジブリマジック』に登場する敏夫さんは、30年前の敏夫さんと少しも変わっていなかった。それは、以下の言葉からもわかる。
「僕らの仕事がある産業の一翼を担っているとか何とか言われても、チャンチャラおかしいんですよ。まず映画や出版を産業と呼ぶこと自体がおこがましい。映画や本は、まじめに働いている人たちに、『日曜日ぐらい映画を見よう。本でも読もう』と楽しんでもらう、そういうものを提供しているわけでしょ。言ってみりゃ、人生の裏街道ですよ(笑)。 立派な仕事というのは、やはり衣食住に関するもの。そこから外れる映画とか出版は、一段落ちるものだと思ってなきゃいけない。」(鈴木敏夫氏の言葉/『ジブリマジック』より) |
そのとおり!
コメント
『ジブリマジック』大変、気に入りまして、自分のHPでも宣伝しました。宣伝に際して、著者名でGoogle検索したところ行きつきました。
日本人ってこういう生き方がしたいんじゃないのかな?という気がします。
柴田
投稿者: 柴田英寿 | 2005年02月06日 22:33
>柴田さん
コメント、ありがとうございました。
よろしかったら同じジブリの鈴木敏夫さんや、「ポケモン」の関係者が登場する『踊るコンテンツ・ビジネスの未来』(畠山けんじ/久保雅一/小学館/2004年12月刊/1,800円)にも目を通してみてください。いまや映画、アニメなどは、日本の経済を支える基幹産業なんだそうです。
http://www.m-sugaya.jp/nikki/nik0412c.htm#041228
投稿者: すがやみつる | 2005年02月06日 22:54
ご無沙汰。偶然、みつけました。すがやちゃんには、「社長」をやってほしいと頼まれたことを憶えている。いまだから告白するけど、あのとき、ちょっとは心が動いたのです(笑)。ところで、土山くんは、どうしてるの? 昔の単行本を見るたび、ふと思い出します。
投稿者: 鈴木敏夫 | 2005年03月14日 01:04
あわわわわわ……ごぶさたしています。
いま、カルシファーの鉛筆削りで鉛筆を削っていたところでした。
3月4日に、徳間書店のSF大賞贈賞式に出かけたんですが、『イノセンス』の押井監督が大賞だったので、ひょっとしたら会えるんじゃないかと期待していたんですが、見つけることができませんでした。
ええと、そのほかのことについては、メールにします。
ああ、ビックリして、まだ心臓がドギマギしています。
投稿者: すがやみつる | 2005年03月14日 01:26