デビルマンは誰なのか(永井豪)
1969年の終わり、『ハレンチ学園』の「スカートめくり」が社会問題化したとき、編集プロ勤務だったぼくは、「週刊女性自身」の仕事で『ハレンチ学園』事件について識者に電話インタビューをしたことがある。『フイチンさん』のベテランマンガ家・上田としこ氏や、教育評論家のカバゴンこと阿部進氏にインタビューしたのだが、編集部からリストに掲載されていた識者の方々は、皆さん、『ハレンチ学園』に寛容だった。
まだ大塚にあったダイナミックプロを訪問したのは、「月刊少年マガジン」の特集ページの取材で、マンガ家の仕事場の様子をマンガ家に描いてもらい、同時に1週間の食事メニューを書いてもらい、医事評論家に栄養面でコメントしてもらうというものだった。ところが永井さんは、「週刊少年マガジン」掲載の100ページ読み切り『鬼』の執筆途中でダウン中。アシスタントも死にそうな状態だからという理由で、取材者のぼくが仕事場のイラストまで描くことになった。仕事場に出かけて室内の様子をスケッチし、つづいて近所の永井さんの実家を訪問して、お母さんに食事のメニューを訊ねたのだが、実家では、ほとんど食事をしていないという。結局、マネージャーが永井さんに訊ねてくれて、なんとか1週間分の食事メニューを書き出したのだが、この一覧を見た医事評論家の先生のコメントは、「早く結婚しなさい。でないと死んでしまう」というようなものだった。食事のメニューがひどかったからだ。
このとき、ぼくが描いたイラストを見て、あとでダイナミックプロのマネージャーが、「アシスタントにならない?」と声をかけてくれたのだが、まだ編集プロに就職したばかりだったので、丁重にお断りした。実は、永井さんのアシスタントになり損ねたのは、これが二度目。最初は、高校生のとき、同人誌の会長で、石ノ森章太郎先生のアシスタントになることが決まっていた菅野誠(ひおあきら)が、「石ノ森先生のところから独立したばかりの永井さんがアシスタントを捜しているけど、やってみない?」と連絡してくれたのだ。「あ、あの『目明かしポリ吉』を描いた人だ」と感激し、紹介してほしいと頼んだのだが、タッチの差で小山田つとむさんがアシスタントに決定したとのことで、こちらはお流れに。
ダイナミックプロに行っていたら、また違ったマンガ人生があったのかなあ……?