8月3日に買った本(3)ダディ・グース
つい最近になって出版さているのを知り、紀伊國屋書店に在庫があるのを確認して買いにいった本。昨年のうちに出ていたなんて、まるで知らなかったけれど、それでも買うことができて気分がいい。いま読み返すと、面白いというよりも懐かしさが先に立つ。
『少年レボリューション―ダディ・グース作品集』(ダディ・グース/飛鳥新社/2003年4月刊/2,625円)
※写真は、左=『少年レボリューション』、右上=『リンゴォ・キッドの休日』(写真は1987年刊のハードカバー初版。リンク先は新潮文庫版)、右下=『夏のエンジン』(矢作俊彦=作/ダディ・グース=装幀/文藝春秋/1997年9月刊/1,500円。装幀に惹かれて買った本)。『マイク・ハマーへ伝言』の初版もあるはずなんだけれど……。
※写真は、左=『少年レボリューション』、右上=『リンゴォ・キッドの休日』(写真は1987年刊のハードカバー初版。リンク先は新潮文庫版)、右下=『夏のエンジン』(矢作俊彦=作/ダディ・グース=装幀/文藝春秋/1997年9月刊/1,500円。装幀に惹かれて買った本)。『マイク・ハマーへ伝言』の初版もあるはずなんだけれど……。
※ニフティサーブ「本と雑誌フォーラム」に連載した「ボクのマンガ青春期」(1991年)に掲載した文章より。
●もう一人の天才
この頃は、坂口さんはじめ、個性的なマンガ家がたくさん登場していた。マンガ界にとって、最も熱気にあふれた時代でもあったのだ。
なかでもユニークなマンガ家を輩出していたのが双葉社の『漫画アクション』だった。同社の『漫画ストーリー』に登場したモンキー・パンチ、バロン吉元といった人たちが、それまでにないアメリカンナイズされたユニークな絵柄と構成で『漫画アクション』に新作を描き、人気を集め始めていた。
『ルパン3世』のモンキー・パンチ氏は、兄弟ふたりの合作のペンネームだった。兄弟のどちらかが、時代マンガで講談社新人賞を受賞していたはずだ。
バロン吉元さんは、セントラル文庫という名古屋の貸本劇画専門出版社から出ていた『街』という短篇劇画誌の新人賞受賞者だった。その後、横山まさみち氏の横山プロダクションに入り、吉元正の名前で『鉄火場シリーズ』などのヤクザものを手がけていたが、『漫画アクション』に出てきたときは、絵柄も名前も変わり、西部劇やギャンブルものを手がけるようになっていた。『柔侠伝』という大ヒットが生まれるのは、この少し後のことだ。
『漫画アクション』には、ほかにもユニークなマンガ作品が登場していたが、なかでも気になったのは、アメリカのパロディ雑誌『マッド』の似顔絵マンガに絵柄が似たバタ臭いマンガだった。作者の名前はダディ・グース。『平凡パンチ』に紹介されたプロフィールによれば、東大付属駒場高校で学園闘争をし、そのままドロップアウトしてマンガ家になったということだった(※東大付属ではなく東京教育大付属だったかもしれない。ダディ・グース氏の叔父さんだったかが、「平凡パンチ」の編集者だったと、宮谷一彦氏から聞いたことがある)。
絵柄は確かに『マッド』のマンガを下敷きにしていたが、アメリカの似顔マンガをまねるには、デッサン力が必要になる。デッサンの素養のないぼくには、逆立ちしても真似のできない絵柄だった。そのむずかしい絵柄でオリジナル・ストーリーのパロディマンガを描いていくのである。
「ダディー・グースは天才だ!」
ぼくは心底そう思い、マンガ仲間にも触れてまわったのだが、誰も同意してくれなかった。当時のアシスタントは、劇画系の細密な描写をするマンガ家を好む傾向が強く、パロディマンガに関心を持つアシスタント志望者は少なかった。
それは、一般のマンガ雑誌の読者にとっても同じだったらしい。たぶん人気アンケートのせいだとは思うのだが、ダディ・グースのマンガは『漫画アクション』でも、一九七四年あたりを最後に見かけなくなっていく。
その後、ダディ・グースの名前を見つけたのは、『早川ミステリマガジン』誌上だった。そこで彼はレイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』をマンガ化していたが、主人公であるフィリップ・マーロウの顔は、テレビ映画『逃亡者』で主人公のリチャード・キンブルを演じたデビッド・ジャンセンの顔になっていた。
その連載と平行してだろうか、終了後だったろうか、同じ『ミステリマガジン』に、バタ臭い感覚の横須賀の刑事を主人公にした国産ハードボイルドが掲載された。作者の名前は矢作俊彦といい、初の書き下ろし長編『マイクハマーに伝言』が光文社から出版されるのは一九七八年になってからだった。その直後、『リンゴキッドの休日』も早川書房からハードカバーで出版されている。
このハードボイルド作家・矢作俊彦氏こそが、マンガ家ダディ・グースの変身した姿だったのだ。矢作氏は、その後、古巣の『漫画アクション』で大友克洋氏とコンビを組み、『気分はもう戦争』の原作を手がけることになる。
●もう一人の天才
この頃は、坂口さんはじめ、個性的なマンガ家がたくさん登場していた。マンガ界にとって、最も熱気にあふれた時代でもあったのだ。
なかでもユニークなマンガ家を輩出していたのが双葉社の『漫画アクション』だった。同社の『漫画ストーリー』に登場したモンキー・パンチ、バロン吉元といった人たちが、それまでにないアメリカンナイズされたユニークな絵柄と構成で『漫画アクション』に新作を描き、人気を集め始めていた。
『ルパン3世』のモンキー・パンチ氏は、兄弟ふたりの合作のペンネームだった。兄弟のどちらかが、時代マンガで講談社新人賞を受賞していたはずだ。
バロン吉元さんは、セントラル文庫という名古屋の貸本劇画専門出版社から出ていた『街』という短篇劇画誌の新人賞受賞者だった。その後、横山まさみち氏の横山プロダクションに入り、吉元正の名前で『鉄火場シリーズ』などのヤクザものを手がけていたが、『漫画アクション』に出てきたときは、絵柄も名前も変わり、西部劇やギャンブルものを手がけるようになっていた。『柔侠伝』という大ヒットが生まれるのは、この少し後のことだ。
『漫画アクション』には、ほかにもユニークなマンガ作品が登場していたが、なかでも気になったのは、アメリカのパロディ雑誌『マッド』の似顔絵マンガに絵柄が似たバタ臭いマンガだった。作者の名前はダディ・グース。『平凡パンチ』に紹介されたプロフィールによれば、東大付属駒場高校で学園闘争をし、そのままドロップアウトしてマンガ家になったということだった(※東大付属ではなく東京教育大付属だったかもしれない。ダディ・グース氏の叔父さんだったかが、「平凡パンチ」の編集者だったと、宮谷一彦氏から聞いたことがある)。
絵柄は確かに『マッド』のマンガを下敷きにしていたが、アメリカの似顔マンガをまねるには、デッサン力が必要になる。デッサンの素養のないぼくには、逆立ちしても真似のできない絵柄だった。そのむずかしい絵柄でオリジナル・ストーリーのパロディマンガを描いていくのである。
「ダディー・グースは天才だ!」
ぼくは心底そう思い、マンガ仲間にも触れてまわったのだが、誰も同意してくれなかった。当時のアシスタントは、劇画系の細密な描写をするマンガ家を好む傾向が強く、パロディマンガに関心を持つアシスタント志望者は少なかった。
それは、一般のマンガ雑誌の読者にとっても同じだったらしい。たぶん人気アンケートのせいだとは思うのだが、ダディ・グースのマンガは『漫画アクション』でも、一九七四年あたりを最後に見かけなくなっていく。
その後、ダディ・グースの名前を見つけたのは、『早川ミステリマガジン』誌上だった。そこで彼はレイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』をマンガ化していたが、主人公であるフィリップ・マーロウの顔は、テレビ映画『逃亡者』で主人公のリチャード・キンブルを演じたデビッド・ジャンセンの顔になっていた。
その連載と平行してだろうか、終了後だったろうか、同じ『ミステリマガジン』に、バタ臭い感覚の横須賀の刑事を主人公にした国産ハードボイルドが掲載された。作者の名前は矢作俊彦といい、初の書き下ろし長編『マイクハマーに伝言』が光文社から出版されるのは一九七八年になってからだった。その直後、『リンゴキッドの休日』も早川書房からハードカバーで出版されている。
このハードボイルド作家・矢作俊彦氏こそが、マンガ家ダディ・グースの変身した姿だったのだ。矢作氏は、その後、古巣の『漫画アクション』で大友克洋氏とコンビを組み、『気分はもう戦争』の原作を手がけることになる。