なぜ重慶で日本人がブーイングを受けるのか?
■コメント機能を停止します このエントリーに対し、多数のコメントをありがとうございました。 傾聴に値するコメントもあった半面、ご自身の主義主張を投げ捨てていかれるだけの方も多く、このまま放置しておくと荒れ放題になりそうな恐れもあるため、申しわけありませんが、本日(2004年9月4日)をもって、本エントリーのコメント機能を停止させていただきます。 まことに勝手ではありますが、本業多忙につき、Blogのフォローも充分にできないため、このような措置を取らせていただきました。ご理解いただければ幸いです。(菅谷 充/すがやみつる) |
サッカーのアジアカップが中国の重慶で開催され、中国人観客の日本チームに対するマナーの悪さが話題になっている。このニュースに関連して、重慶と日本の関係が、ようやくあちこちで紹介されるようになってきたが、たとえばBlogなどでは、高齢者からの聞き書きなどに誤認が見受けられたりもする。とりあえず戦争を娯楽として扱う架空戦記小説作家ではあるが、それはそれとして、とりあえず架空ではない重慶と日本の関係について書いてみる。
昭和12(1937)年7月7日夜、北京郊外の廬溝橋付近に駐留し、訓練をしていた日本軍に対し、銃弾が発射され、これが付近にいた中国国民党軍からの発砲ではないかと考えた日本軍との間に交戦状態が勃発する。いわゆる廬溝橋事件であるが、この騒動は数日で鎮静化をみる(戦後、中国共産党の謀略行為であったことが判明)。
しかし、騒乱は上海に飛び火し、やがて全面戦争の状態になっていくが、日本では、この日中戦争のことを「支那事変」と呼んだ。戦争には宣戦布告が必要だが、この戦いには、そのようなものはなかったからである。
当時、中国国民党政府(蒋介石総統)は南京に首都を置き、ここに攻め込んだ日本軍が、いわゆる南京大虐殺を起こしたとされている。南京を追われた国民党政府は、揚子江をさかのぼって漢口に首都を移動。昭和13年末、ここも日本軍に攻略されると国民党政府は、さらに揚子江をさかのぼって重慶に首都を置いた。
漢口から重慶までは約750キロ。重慶に向けて進撃しようにも、補給線も伸びきっているため、それもかなわず、ついに日本軍は、空爆によって国民党政府を屈服させようと、重慶に対する「無差別爆撃」を開始する。本来、国際法(ジュネーブ条約)では、戦争のとき、非戦闘員に対する攻撃をしてはならないことになっているが、それを無視して一般市民まで殺傷する市街地への爆撃が無差別爆撃と呼ばれている。
重慶に対する爆撃が開始されたのは、昭和14年になってからだが、都市に対する無差別爆撃は、この2年前、内戦中のスペインにおいて、フランコ将軍ひきいる反乱軍を支援するナチス・ドイツ派遣のコンドル軍団という航空部隊が、古都ゲルニカに対し焼夷弾を中心とした爆撃をおこない、数百人の市民を殺傷したのがはじまりとされている(小規模なものは、第一次大戦時の、ドイツ軍の飛行船や爆撃機によるロンドン空襲や、それに対するイギリス空軍の報復爆撃などもあった)。ただし、ゲルニカに対する爆撃が1回だけだったのに対し、日本軍の重慶に対する爆撃は、1943年までの4年間、200回にも達することになった。
また、重慶に対する爆撃は、世界初の「戦略爆撃」であるとされている。戦略爆撃とは、敵軍の後方にある軍需工場などの破壊を目的とした爆撃で、目前にいる敵軍に対する直接的な「戦術爆撃」と区別されている。兵器や物資の生産地、補給路を攻撃することで、敵軍の兵力を弱めようという考え方であり、一般市民に恐怖を与えることで士気を低下させる目的も持っている。
当時、戦略爆撃という発想を持っていなかった日本陸軍航空隊は、長距離爆撃機も持っておらず、急きょ、イタリアからフィアット製の爆撃機を輸入したが、さしたる効果をあげていない。重慶爆撃で主役になったのは、広大な南洋の島嶼地帯防衛のために、長大な航続力を有する九六式陸上攻撃機を保有していた海軍航空隊だった(第一次大戦後、旧ドイツ領だった南洋諸島が日本の信託統治領となり、これらの島々を守る名目で、航空本部長だった山本五十六が、長距離爆撃機の開発を提唱していた)。
支那事変が上海に飛び火した直後、折からの台風をついて台湾、済州島、長崎(大村)などから「渡洋爆撃」を敢行したのも九六式陸攻であり、以後、昭和15年、後継機の一式陸攻が登場するまで、この爆撃機が、重慶爆撃の主役となる。
しかし揚子江と支流に挟まれ、周囲を高い山に囲まれた岩山にへばりつくようにして広がっている重慶は、冬季は霧に包まれることが多く、レーダーもなかった頃であったため、爆撃が可能なのは晩春から初秋の季節に限られていた。冬の間は爆撃もできず、翌年になれば、破壊したはずの民家が再建されて建ち並び……という状態で、日本軍としては、あまり大きな効果が得られていなかった。
さらに問題が発生した。漢口から重慶までは片道750キロほどの距離があるが、重慶爆撃が開始された昭和14年当時、この距離を飛行できる爆撃機はあったが、護衛する戦闘機が存在しなかったのだ。双発単葉のの全金属爆撃機である九六式陸攻が開発された頃、この爆撃機に追いつける戦闘機がなく、戦闘機不要論まで声高に述べられたほどだった。その後に登場した九六式艦上戦闘機は、中国空軍機(ソ連製のI‐15複葉戦闘機、I‐16単葉戦闘機)よりも優秀で、圧倒的な強さを見せたが、漢口から重慶まで往復できるほどの航続距離を持っていなかった。
そのため九六式陸攻の爆撃隊は、護衛戦闘機なしで重慶に対する(さらに奥地の成都、蘭州などにも)爆撃に向かったが、九六式陸攻よりも速いソ連製戦闘機に迎撃され、多数の被害を出すようになっていた。
また、重慶方面の基地を発進したソ連製のSB(エス・ベー爆撃機)に漢口基地が爆撃されることもあり、重慶方面に対する奥地爆撃の必要性は、ますます高まっていた(このソ連製爆撃機は、ロシア人パイロットが操縦していたという説もある)。
そこで漢口の前進基地から日本海軍航空本部に対しては、漢口から重慶までを往復できる長距離戦闘機の開発が求められるようになる。この中国での戦訓も得て開発されたのが「零式艦上戦闘機」だったのだ。
昭和15(1940)年夏、まだ十二試艦上戦闘機という試作機の段階にあったにもかかわらず、15機の零戦が漢口に運ばれ、ここで試験飛行の最後の仕上げをやって、ついに重慶爆撃に同行する。ところが新型戦闘機出現の情報を得ていた中国空軍は、零戦と九六式陸攻が近づくと、戦闘機を退避させてしまう作戦をとった。そのため零戦隊は、二度の出撃でも会敵できず、三度目の出撃にして、ようやく中国空軍のI‐15、I‐16戦闘機と戦う機会を得た。このとき零戦隊は、九六式陸攻の爆撃終了後、いちど漢口方面に引きあげるが、重慶上空に残っていた偵察機から、避難していた中国空軍戦闘機が戻ってきたとの連絡が入るのを待っていた。中国空軍戦闘機は、零戦との戦いを避けて避難しておきながら、日本軍機が去ると、自分たちが追いはらったのだと市民に宣伝するため、重慶上空で、派手な飛行を演じて見せることが多かったのだ。
漢口方面に戻ったと見せかけた零戦隊は、すぐさま重慶上空に引き返し、中国空軍機との戦闘に入る。この戦いで13機の零戦隊は、中国空軍機27機を撃墜。日本海軍の零戦隊は、この後も、重慶、成都方面で圧倒的な勝利をおさめ、翌昭和16年夏、対米戦に備えて台湾に引きあげるまで、中国上空の制空権を確保しつづける。また、重慶爆撃も陸軍の手で断続的につづき、重慶では総計2万数千人の死者が出たという。
太平洋戦争で日本は、B‐29とアメリカ海軍空母搭載機による無差別爆撃で、多数の都市を焼かれ、広島と長崎には原爆を投下されるが、その市民が暮す都市に対する無差別爆撃を、戦略爆撃の名で正当化するというパンドラの箱を開いてしまったのが、日本海軍の重慶爆撃だったともいえるのだ。
なお、外国人兵が中国軍に参加していたとの説であるが、前述したソ連爆撃機のパイロットがロシア人だった(らしい)といわれているほかに、多数のアメリカ人パイロットも、国民党空軍の国籍マークをつけた戦闘機で、日本軍と戦っていた。昭和15年、国民党政府の宗美齢・蒋介石夫人は、アメリカ陸軍航空隊の退役軍人であるクレア・L・シェンノート少佐を招き、国民党空軍の立て直しを実施した。その結果、アメリカ人パイロットによる戦闘機部隊が結成され、「アメリカン・ボランティア・グループ(略称AVG)」の名前が与えられた。この空軍は「ボランティア」、つまり航空義勇軍の扱いあった。
AVGが使用した戦闘機は、アメリカからイギリスに送られるはずだったカーチスP‐40「ウォアホーク」で、国籍マークは国民党政府の青天白日旗。機首の下にはサメの歯が描かれていた。
パイロットたちは、蒋介石総統から贈られた革のフライトジャケットを着用しており、その背中には、派手な虎の絵が刺繍されていた。この航空義勇軍は、そのジャケットと同じ「フライング・タイガー」の名前でも知られることになるが、ボランティアとはいっても本来の意味でのボランティア(志願兵、義勇兵)であり、高額の給料も支払われていたし、日本軍機を撃墜するたびに賞金も贈られることになっていた。傭兵といった方が正しいかもしれない。
なお、重慶西方の成都は、昭和19(1944)年春には、インドのカルカッタに根拠基地を置いたアメリカ軍B‐29爆撃部隊の進出基地となった。カルカッタから飛んできたB‐29は、ここで爆弾と燃料を補給し、北九州や満州(その前には漢口も)を爆撃したのだが、航続距離の関係で、四国や本州の爆撃はできず、東京への空襲は、サイパン島が占領され、ここがB‐29の基地になった後の昭和19年秋からになる。
やがてサイパン、グアム、テニアンから発進したB‐29が、東京大空襲や原爆投下という「戦略爆撃」の任務を決行することになるのだが、その戦略爆撃のはじまりが、日本海軍の重慶爆撃だったのだ。
重慶で開催されたサッカーの試合で、日本人に対する妨害がひどかったことについては、確かにマナー違反であろう。かつての韓国がそうであったように、国民の生活上の不満を日本への敵視によって緩和させようとする政策があったのではなかろうか。国際的に見れば、中国政府が北京オリンピックとの関係から大あわてしているように、やはり恥ずかしい行為だろう。しかし、それはそれ。やはり重慶にサッカーの試合に出かけるのなら、重慶と日本との関係について、あらかじめリサーチしておけば、彼の地の人たちが、何ゆえにアウェイ的態度を取るのかもわかり、あわてずにすんだかもしれない。
ちなみに日本政府は、B‐29による日本の焦土化作戦の指揮をとったカーチス・ルメイ将軍に対し、戦後の1964年、勲一等旭日章受勲を授与しています。恩讐の彼方に……というわけではなく、航空自衛隊の創設に貢献したからだそうです。ドイツのハンブルクやドレスデンに対する無差別爆撃の指揮をとったイギリス空軍のハリス大将は、戦後、イギリス国民からも激しい非難を浴び、いたたまれなくなって空軍を退役し、南アフリカで寂しい余生を過ごしたといわれています。
『戦略爆撃の思想―ゲルニカ-重慶-広島への軌跡 (上)』
『戦略爆撃の思想―ゲルニカ-重慶-広島への軌跡 (下)』
以上2点は、版元倒産のため絶版。オリジナル(朝日新聞社)も絶版。
こちらは、昨年出版されたばかりなので、入手しやすいと思います。ドイツ人旅行者による記録で、講談社学術文庫から発売されています。
『WORLD WAR II』(TIME LIFE)(日本語版あり)
図書館などでないと見つからないかもしれません。全22巻のシリーズのうちの1冊「中国=ビルマ=インド」が、第二次大戦に至る前のアジアの状況について触れられており、日本軍に爆撃を受けた重慶の様子が写真と記事で紹介されています。このうちの一部の写真が、最近、「南京大虐殺」の証拠写真として扱われていたことが発覚したりしたことも……。
爆撃した日本海軍の側から見た重慶爆撃(奥地爆撃)については、零戦関連を中心に、多数の本が出ています。その中の1冊で、成都近郊の中国軍基地に零戦で着陸し、ライターで敵機に火をつけてきた……という有名な武勇伝が紹介されている本です。
こちらはフィクションですが、以下の本が、当時の日中の空の戦いについては、よく雰囲気を伝えているのではなかろうかと思います。
■張学良死去(2001年10月、100歳でハワイにて死去)
http://www.m-sugaya.jp/nikki/nik0110b.htm#011015
■宗美齢(蒋介石夫人)死去(2004年10月、105歳でニューヨークにて死去)
http://www.m-sugaya.jp/nikki/nik0310c.htm#031024
※トラックバック先のひとつに、日本軍が重慶まで攻め込んだと書かれていましたが、重慶までは到達しておりません。重慶に対しては、(通産200回もの)空爆だけでした。
コメント
ブーイングの件、サッカーファンとしてはとても複雑な気持ちです(´Д` )スタジアムの中に政治的スローガンを持ち込んだりするのは、FIFAとして御法度にされているのですが……というか重慶を日本の会場にした中国協会が嫌みったらしいんですけど。
明晰な文章はひじょうに勉強になりました。
AVGのパイロットのことは、以前に「初の空戦」みたいな言い方で、NHKの番組で見たような記憶がおぼろげに……(不勉強で申し訳ありません)
投稿者: 弥代@Y3Products | 2004年08月01日 10:06
>弥代さん
コメントをありがとうございました。
テレビは見ていないのですが、川口が活躍したようで、同郷の人間としては喜ばしい限りです。アトランタ・オリンピックで活躍した後、イングランドに行ってからは、なんだか鳴かず飛ばずみたいな印象もあったもので……。
AVGの初空戦は、太平洋戦争開戦後の1941年12月20日、ビルマのラングーン攻防戦にRAF(英空軍)とともに参加したときです。
http://www.flyingtigersavg.com/
↑このサイトの「History」ページを見ると、素晴らしい戦果が続いているのですが、なんだか誇大報告されているような気がしないでもありません。
投稿者: すがやみつる | 2004年08月01日 11:49
はじめまして。重慶について詳しい記事を探しておりましたので、興味深く読ませていただきました。また、こちらへのトラックバックおよびご指摘ありがとうございました。ちょっと迷いましたが、あえてこちらからもトラックバックいたしました。
投稿者: ゆかりん | 2004年08月01日 17:36
>ゆかりんさん
さしでがましい真似をしてすみませんでした。愛読している「たなぼた」というココログを読んでいたら、今回の重慶の件で、そちらのココログにリンクされているのを発見して読ませていただいたのですが、ちょっと、お母様の記憶違い、あるいは、誤った知識を記憶されたと思われる記述があったもので、ついトラックバックさせていただきました。そちらの書き込みに複数のトラックバックがつき、それを論述の根拠としているものがあったので、誤った情報がひとり歩きする危険があるとも思いまして、つい出しゃばってしまいました。
お母様の年齢からすると、支那事変が始まったのは9歳の頃だと思いますが、新聞が国民の戦意を煽り立てるような報道をしていた時代ですから、正しい情報を知る……というほうが無理というものでしょう。
もちろんぼくが書いた重慶爆撃に関する情報も、複数の資料に当たってはいますが、目先の仕事が忙しいこともあって、記憶で書いているところもあります。したがって、何かの情報の根拠にするときは、紹介してある資料などを使ってチェックするようにしてください。
投稿者: すがやみつる | 2004年08月01日 19:39
間違い発見。宗美齢が死んだのは、昨年(2003年)10月でした。「2004年10月」のわけがありません。まだ8月だってのに。
投稿者: すがやみつる | 2004年08月02日 12:01
また修正。
日本海軍航空隊の重慶初空襲は、昭和14年(1939年)ではなく、昭和13年(1938年)の2月18日。この爆撃を実施した航空隊(一連空)の司令部は南京。重慶、成都方面の爆撃が本格化するのが、翌昭和14年、漢口に司令部を進出させてから。ソ連製SB爆撃機による漢口基地空襲も、昭和14年(10月)になってからのことです。
投稿者: すがやみつる | 2004年08月02日 12:41
「前事忘らざるは后事の師
史をもって鏡を開くとなすは未来を創る」
侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館、いわゆる南京大虐殺記念館の壁にはそう書かれています。これは私が読み下しました。
原文はこうです。
「前事不忘后事之師
以史為鏡開創未来」
私はこの言葉を、何度も、何度も読み返しました。
投稿者: 銀縞 | 2004年08月02日 22:27
「以史為鏡開創未来」
これは「史をもって鏡(鑑)となすは未来を創り開く」としたほうがいいか。五・三で切ると鏡餅みたいだものなぁ……。
投稿者: 銀縞 | 2004年08月02日 23:55
もっと簡潔に要領良く書け。途中でよむのが嫌になる。
投稿者: 西 海士 | 2004年08月05日 09:58
>西さん
どうも申しわけありませんね。これがぼくのスタイルでもありますので。でも、文体を変えたり、改行を増やすなど、リーダビリティ(読みやすさ)という点では、もっと工夫しないといけませんね。反省しています。
投稿者: すがやみつる | 2004年08月05日 11:36
>西 海士さん
簡潔にまとめれば「日本が卑劣な手を使って攻撃した」ですよ。ただその背景にはいろんな出来事が複雑に絡み合って
それを文章にするとこうなってしまうのでしょう。
どんな戦争でも簡単にまとめれば、
「○○が欲しかったため、○○国と○○国が手を組んで、○○国を攻撃しました。」
で終わってしまうのではないでしょうか?
戦争を取り上げた書物に読みやすい本などなかなかないですよ。
私は今回のアジアカップの重慶でのブーイングに興味を持ち
、「大東亜戦争なんちゃら」とかいう書物を読もうと思いまし
たが、あまりのボリュームと、知らない土地名がワンサカ
出てくるので、気が狂いそうになり途中で辞めました。
「はだしのゲン」くらいですかね(・・;)
投稿者: オーレ | 2004年08月06日 10:58
重慶のブーイングの件ですが、「戦時中の重慶に対する日本軍の攻撃のことが背景にあるのでは?」と書かれた他のBlogを発見し、しかも、その文章に誤認があるのに気づいたことが、こちらで長い文章を書いたきっかけでした。
その後、テレビや新聞などの報道を見ていますと、反日的同機から騒いでいたのは、中国側が言うように、一部のフーリガンだけって感じですね。たとえば彼らの側の「歴史認識」は「釣魚島(尖閣諸島)」など、現在の利害関係が絡んだ問題しかアピールされていないような感じでした。
つまり、「『重慶爆撃の記憶』がブーイングの根拠になっていたわけではない」ということです。もし、戦前の古い歴史がブーイングの根拠であれば、1928年に「済南事件」という日中の衝突があった済南の試合でも、この事件を根拠としたブーイングがあったはずです。
また、重慶という都市は、1938年に国民党政権が首都を移す前の人口が20万、首都移転とともに約80万の人が移ってきて100万都市になったといわれています。で、いまの重慶は、人口3000万人で、世界最大の「市」になっています。これでは「重慶爆撃の記憶」の伝承もむずかしいのかもしれません。
とはいえ中国では、過去から現在までの日中の歴史が、場合によっては誇大解釈して教えられているようです。この反日教育の強化は1990年代から始まったようですが、その理由は、1989年の天安門事件ショックでしょうね。中国の学生たちが民主化を求めて天安門でデモをしたのですが、中国政府は軍事力を使ってデモを排除してしまいました。この民主化運動に危機感を覚え、仮想敵国を作って危機感を煽る方法で、民衆の不満を外に向けさせようとしているのではないでしょうか。それが行きすぎているところもあるようで、かえって中国のイメージを貶める結果になっています。
日中戦争の頃の日本の歴史については、こんな本が入門書としては向いているかもしれません。
『マンガ日本の歴史 (53)』
(この巻が日中戦争から太平洋戦争を扱っているようですが、文庫版は品切れのようです。ハードカバー版は図書館にあるかもしれません。また、コンビニ版も発売されています)
投稿者: すがやみつる | 2004年08月06日 12:17
重慶のブーイング事件は、それ自体の良し悪しはともかく、時期的にも日本の戦後処理と中国の国策が浮き彫りになった良い機会になったのかもしれません。 サッカーファンは私を含めて日中戦争を知らない世代ですから。 世界にはこうした過去に紛争や戦争を持った国同士が試合をする事もしばしばですが、中国にはそれに対する準備がなされていない事が浮き彫りになり、オリンピックに向けての良い経験になったと思います。
また、日本は中国の広大な大地に対して、どのように効果的な文化交流をして平和的な付き合いができるかを模索する必要性を感じる人が増えたと思います...思いたいです。
ともあれ、重慶に関連しての日中戦争の記事は、とても参考になりました。
投稿者: 共和国首相 | 2004年08月07日 13:25
中国で軍人として戦った人たちの多くは戦後、沈黙してしまったのですが、その中で中国で捕虜となり帰国された方々が貴重な戦争体験を語っています。帰国された時期が冷戦下の50年代だったために、洗脳された赤、などと誹謗されたのですが、それでも真実を語ることを止めなかった。
■中帰連Webサイト
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/index.htm
その手記はショッキングな内容かもしれないですが、こうした戦争の記憶を知っていないと中国の人たちの怒りを理解できないでしょう。
投稿者: MAO | 2004年08月07日 18:18
靖国神社が日本の戦死者を祀る場所である限り「反日」は収まることはありえません。アジア侵略を大御心や解放などと未だにほざいている神社です。あのようなところに戦死者を祀る
ことは戦死者への冒涜以外の何者でもありません。日本人には
それがわからない人が多すぎますが、大半のアジア人にはそれがわっかています。
投稿者: 山崎晃嗣 | 2004年08月08日 10:55
靖国神社へのA級戦犯合祀が問題なんです。
しかし、実際の骨は靖国神社にはなくて、意外なところに祭られていることは世間では知られていない。
http://www.tanken.com/koa.html
これには吃驚しました!
投稿者: MAO | 2004年08月08日 14:49
>日本人には
それがわからない人が多すぎますが、大半のアジア人にはそれがわっかています。
その「アジア人」って「反日アジア人」でしょ。(中国・朝鮮の)
親日的なアジア人は(インドの人々も含めて)そんな事言ってませんよ。
勝手に「アジア人」を代表して捏造しないように。
ちなみに「靖国神社」は明治天皇が幕末から明治にかけての戦没者慰霊の為に立てたものです。
投稿者: 通りすがり | 2004年08月08日 22:27
山崎晃嗣さん、
>アジア侵略を大御心や解放などと未だにほざいている神社です
あなたは日本人ですか?
自分のご先祖様も戦争で亡くなられているかもしれないのに、
よくこんなこと言えますね。
自分たちの先祖に対して失礼ではないですか?
投稿者: ちょっとだけ意見 | 2004年08月08日 23:03
ちなみに「中帰連」について一言。
たしかにその場に居た人の証言として重要視されるのでしょうが、大抵の戦史研究においては「思想改造所」で共産主義を叩き込まれ、その後に日本の左翼・プロ市民と結びついている「中帰連」の発表する事は、「話し半分」程度に留めておいた方が無難だというのが通説です。
投稿者: 通りすがり | 2004年08月08日 23:08
いずれにしても話しを戻せば、スポーツの国際試合において、
政治的活動を持ち込む自体「非常識」です。
これでテロ活動でもおきれば、「北京オリンピック」はもとより、他の国々も今後中国で行われる国際試合には参加しなくなります。
これは中国と日本という特殊な関係だけに留まらないと、他の国々も見た事でしょう。
中国チームに勝ったら「試合場の外で、仕返しをされるかもしれない。」と思わせるのには充分なアピールだった事でしょう。
投稿者: 通りすがり | 2004年08月08日 23:15
私は中国で会社を経営してます。今回の中国人の馬鹿丸出しの行動は、中国人の本音を世界中に見せつけました。今までも、彼らの扱いには苦労をしてきました。会社の金の横領や部材の横流し、共産党への嘘のたれ込みなど、随分悩まされてきました。私以外にも、多くの中国進出企業はこれらを味わってます。今回の件ではっきりわかりました。永久に我々はうち解けることはないでしょう。なぜならば、うすうす気づいておりましたが、自分たちが貧乏なのは、日本のせい、自分たちが世界で一番正しい。日本人は全員悪者であるから、横領したりひどい目にあわせて当然という中国人ばかりです。私も含めて数社は、中国の工場を閉めて、タイに移すことに決断しました。もう、こんな連中と薄氷踏む思いで、気を使って工作するのはこりごりですね。
投稿者: 武士道 | 2004年08月14日 19:43
すがやみつるさん「『重慶爆撃の記憶』がブーイングの根拠になっていたわけではない」というのは、間違いだと思いますよ。『重慶爆撃』を含めた過去の出来事が、反日感情の土壌となっていることは明白であり、それが反日感情を政治的にあおる勢力に利用されやすくなっているのです。昔のことを口にしてもしょうがないので、表面には出していないだけです。
武士道さん、中国は実にしたたかだと思います。政治的にも、個人的にも、日本やアメリカの考え方・やり方とは全く違う方法、日本人にはなじめない方法で事を運んでいますね。私たち日本人はそれを学び、良く理解しなければ、大変なことになると思います。
ただ、アメリカも日本人にはなじめない方法でいろいろやってきたのですが、アメリカの場合はそれほど非難されていません。特許問題(1990年代に日本企業をねらい打ちにした)や、金融問題(ヘッジファンドやデリバティブなど)、政治的な問題(京都議定書の一方的破棄、イラク攻撃)など、いろいろあると思います。
日本のやり方も、アジアや復帰前の沖縄にとっては、なじめない方法が多かったようですよ。その時、「カルチャーショック」という言葉で片づけられていました。
武士道さんがおっしゃる中国の問題もたぶんにそのカルチャーショック」の部分が大きいと思います。(皮肉ではないです)
投稿者: ンチャ | 2004年08月14日 23:32
ブーイングは単に中国の反日教育の成果でしょう。中国も韓国も新しく国をまとめるには敵が必要。
>靖国神社へのA級戦犯合祀が問題なんです。
ABCなんて言うのは東京裁判の結果でしょ?
じゃあ聞きますが、なんでBCはいいの?
連合軍の基準による
”捕虜虐待”は良くて”戦争指導”は駄目なんですか?
どうもあなたは得た知識をそのままばらまいているだけで思考が停止しているように思います。
投稿者: とおりすがり | 2004年08月17日 14:52
サッカーを機に重慶爆撃の史実が大勢の人に知られ、平和を創造していくためになることが良かったことです。
考えるにつけ、イラクに自衛隊が行っていて、それが社会の中で当たり前のこととして流れていることが平和にとって大変脅威です。
投稿者: 軍縮っ子 | 2004年08月17日 22:47
ええと……読んでて思ったのですが……「靖国」等の問題は確かにありますが…ここでの問題は平和のスポーツ親善と政治がリンクしてしまったとう事です。
確かに重慶爆撃の史実をはじめ日本のアジアへの侵略行為は許されるべきものではないですが、戦争という物はそれ自体悪で、どちらが正義というものではないと思います。
今後日中両国民がスポーツ親善に対して、そういった対立を持ち込まず、純粋な気持ちでスポーツを楽しむ方法・方向を構築していくよう努力していかなければいけないのではないでしょうか?
投稿者: あらいかなめ | 2004年08月18日 10:28
重慶爆撃の資料を探していましたので、とても参考になりました。ありがとうございました。
日本のやったことについて、あまり詳しく勉強してはいなかったのですが、まさか、ここまでやってしまったとは・・・・・・
ぶっちゃけ、ブーイングされても仕方ないと思っていますが、皆さんの意見はどうですか?
投稿者: 雅 | 2004年08月18日 10:55
>雅さん
「資料」としてお使いになるのでしたら、最初の書き込みでも紹介した書籍を参照してください。ここに書いたことは、それらの資料に書かれていたことの「また聞き」です。ここでもあとから訂正していますように、どうしても間違いも出てきますので、できるだけ「一次資料」に当たるようにしてください。
ここで紹介した本以外にも、重慶爆撃について触れた書物はたくさんありますので。英語が苦手でなければ、選択の幅は、もっと広がると思います。
インターネットで仕入れられる情報や資料は玉石混交で、孫引き、孫々引きのデータが大半です。ときには恣意的に内容が書き換えられていることさえありますので、充分、注意してください。
投稿者: すがやみつる | 2004年08月18日 14:58
>ぶっちゃけ、ブーイングされても仕方ないと思っていますが、皆さんの意見はどうですか?
日本人は、広島・長崎に2発もの原爆を投下されて、東京他大都市を数十万の一般市民もろとも焼き払われて、戦後はGHQにやりたい放題されて、それでも米国人に対してスポーツの国際試合の場などで「ブーイング」などしていませんが、なにか?
投稿者: 通りすがり | 2004年08月21日 00:17
中国スポーツ紙の女性記者は、悲しそうな表情で語ったと新聞のコラムにあったそうです。
「みんな戦争の事など知らない若い人たちばかり、ただ騒ぎたいだけ、不満をぶつける相手をさがしているだけ。なかには悪ふざけしているだけの人もいる・・・」
実態はそんなのものでしょう。
例の寸劇事件でも判る通り、中国国内は鬱屈した感情がかなりたまっていて、本来なら中共政府に向けられるべきものが、政府の誘導で反日になっているだけです。
ネットのニセ情報にも敏感に反応して、集合してくるあたりとても治安が維持されているとは言えません。
又その行動も「単純」かつ「粗暴」で、国際的に開かれているとは言い難く、「北京オリンピック」を開催するのなら、かつての「天安門事件」を鎮圧した時のような「大なた」を振り下ろす覚悟が要求されます。
日本共産党の「赤旗」で「一部で騒ぎもしたが、共に友好的に・・・」などと言うウソを書いた為、内外で批判が出ているそうです。友好的だったら、なんで領事館の車が襲われたんでしょうか?
こうしたバレバレのウソを信じる「反日・自虐日本人」が「天然」に存在する現在の日本は、やっぱり「平和」なんですね。
投稿者: 通りすがり | 2004年08月21日 01:37
>軍縮っ子さん
> サッカーを機に重慶爆撃の史実が大勢の人に知られ、平和を>創造していくためになることが良かったことです。
知っている人は知っていました。知らない人は、知ろうとしないだけです。
あなたは「東京大空襲」についてどのくらい知っていますか?
私の父は焼け出されたうちの一人ですが、そこは地獄絵図だったそうですよ。
>考えるにつけ、イラクに自衛隊が行っていて、それが社会の
>中で当たり前のこととして流れていることが平和にとって大変>脅威です。
私は元自衛官です。
当然、イラクだろうと何処だろうと「海外派兵」には反対です。
しかし、親日的なイラクの人々は「自衛隊」と「米軍」をちゃんと分けて見ていますし、派遣先では歓迎されています。
反米指導者のサドル師も自衛隊受け入れを肯定しています。
意図的に報道されていませんが、他の国々にも「地雷除去」等で自衛隊は貢献しています。
新聞の表題に踊らされる事無く、本質を見ましょう。
投稿者: 通りすがり | 2004年08月21日 01:50
8月6日のログにて既に、すがや先生が書かれていた事と、少々重複してしまったようです。失礼しました。
投稿者: 通りすがり | 2004年08月21日 02:00
そうですね。なんで米兵はあんなに死んでいるのに、自衛隊にいまだ死者が出ていないのか。考えればわかりそうなものです。
すくなくともあんな教育をしている国にODAや円でヘッジしてやるのは、無駄だと思います。ロス毛も嫌いなんで
タイなどの東南アジアや、インドなどともっと仲良くしていきたい。ほんとに日本は国の利益と言うものを考えているんだろうか?
投稿者: ぱくり | 2004年08月21日 02:32
ここは活発でないというか、登場人物がほとんど決まっている閉鎖された空間なんですね。
そんな小空間にも、自虐屋とか、中国の真の姿を知らない方々がいるんですね。驚きました。
一例ですが、今この瞬間も、中国はチベットでとてつもない惨劇をやってます。
http://www.tibethouse.jp/human_rights/
日本のマスメディアは、このことを大きく取り上げるべきですね。
外務省もこのことを大きく取り上げることで、中国の不当な反日戦略を崩すくらいの戦略がほしいです。
投稿者: 武士道 | 2004年08月21日 10:08
靖国は悪魔・羅刹・鬼畜・外道を祭る神社である!
日本人よ!鬼畜の呪縛から早く解放されよ!
アジア人を差別し、賤しめ、殺したいから靖国に祈りを奉げるのだ!
アジアを裏切りたい奴、アジア人を差別し、賤しめ、殺したい奴は靖国で祷れ!
俺は日本人だ!日本人ゆえ靖国を拒絶する!
靖国に祷る日本人よ!貴様らこそ日本を滅ぼす馬鹿者だ!
投稿者: 山崎晃嗣 | 2004年08月31日 20:36
山崎晃嗣さまへ。
表現の問題も考え方もですが、凄く不快な書き込みですね。
言いたいことが有るときは、
もう少し、大人の対応を心がけましょう。
あなたの主張自体と貴方本人が、非常に浅ばかにみえますよ。
投稿者: 山崎晃次 | 2004年08月31日 23:24
中国はどうして日本に後れを取ってしまったのか
林 思雲
かつての日本は、科学技術も文化も、中国より何十年あるいは百年以上も立ち遅れていた。アヘン戦争以前の中国と日本は鎖国し、ヨーロッパの新興文明との接触を殆ど持っていなかった。しかし、1840年、イギリスの軍艦の前に、中国は開国を余儀なくされ、そして、1853年、アメリカ軍艦の来航をきっかけに、日本も同様に対外開放せざるをえなかった。当時の日本は中国と同様、欧米列強との間に多くの不平等条約が結ばれ、侵略の危機に直面した。
こうした外圧にさらされる情況の下、中国と日本のいずれも近代化運動を展開しはじめた。富国強兵は、中国と日本が目指す近代化の共通の目標となった。1868年に日本が近代化政策を開始した時点では、欧米どころか、中国との間にすら何十年という格差が存在していた。しかし、現在の日本は、もはや世界で最も発達した国の一つであるのに対して、中国は依然として発展途上国の地位にとどまっている。百数十年程前には、中国より何十年も遅れていた日本という無名の島国は、一気に中国より何十年も先を行く先進諸国への仲間入りを果たした。なぜ中国が日本に後れてしまったのか、以上の事実に対して、われわれは中国が持つ問題点を考えなければならないのである。
客観的に見て、中国は日本より先に進む理由を多く持っている。中国の国土は広く、資源が豊富であるのに対して、日本の天然資源は非常に少ない。中国の人口は非常に多いが、人口密度は日本より小さい(中国の人口密度は1平方キロメートルあたり130人であるのに対して、日本は330人である)。また、1840年以来、中国に対する欧米の投資は日本に対するものよりもはるかに多い。中国が日本より遅れてしまった原因は、明らかに中国人自身の問題によるものである。
原因1:中国人は自尊自大であるが、日本人は謙虚で勉強好きである
中国は列強に敗戦を余儀なくされた後も、依然として「中華文明こそ天下第一」という認識に何の疑問も持たなかった。欧米による侵略を「息子の父親に対する反抗」と見なし、自分を慰めていた。中国の改良派にしても、中国が西欧に敗れた原因を西欧の「堅船利砲」(強大な軍艦と強力な艦載砲)に求め、中華文明自身が西欧より立ち遅れていたということを認めようとしなかった。逆に、日本人は外圧に屈した後、なぜ欧米の人々が「堅船利砲」を作り出せるのか、と真剣に考えた。
昔の日本人も華夷秩序を信じ、中国だけが世界文明の中心であり、中国に学ばない民族はみんな未開化な野蛮人であると考えていた。欧米列強の侵略を受けると、かつて野蛮人に思われた欧米人こそが、真に文明を持つ人々であり、自分自身が、まだ開化を果していない野蛮人であると、日本人は悟ったのである。その後、日本では、「脱亜入欧」運動が展開された。それによると、中国、朝鮮などの東アジア諸国はまだ開化していない野蛮な国家であり、こうした野蛮国と一緒にいると、いずれだめになってしまう。文明国となるには、日本がこうした東アジアの「悪友」とは決別し、欧米の「良い友」と誠心誠意に接しなければならず、日本人を黄色の皮と、白い中身を持つバナナのような、白人の魂を持つアジア人に改造しなければならないと考えたのである。
1871年、日本は大蔵卿大久保利通や工部大輔伊藤博文をはじめとする百人余りの視察団(岩倉使節団)を欧米に派遣し、22ヶ月に渡って、欧米各国の政府制度、司法機構、教育体制などの詳細な調査研究を行った。日本使節団は当時の列強の元首と相次いで面会を持った。とりわけ、プロイセン(ドイツ)のビスマルク大統領は、日本の代表団を宴会に招待し、その席で弱小国家であるプロイセンが新興強国になる経験を披露した。その話を聞いた日本人達は、「富国強兵の秘密はこれか」と驚きを抑えずに感嘆した。その後、日本がドイツをモデルにし、軍国主義の道を歩む建国方針を確定した。これは後に日本が対外侵略に走る遠因ともなった。
1875年、清朝政府は日本に対して、連合して欧米列強に対抗しようと呼びかけたが、日本に拒否された。なぜなら、当時の日本はすでに「脱亜入欧」を決意し、中国のような後進国との連盟を望まなくなっていたのである。日本が1894-95年の甲午(日清)戦争で中国を、さらに1904-1905年の日露戦争でロシアを相次いで破り、「脱亜入欧」という抜本的な構造改革の正しさを証明した。1945年日本は敗戦した後、今度は、自分を破ったアメリカに真剣に学び、抜本的な民主主義改革を展開し、軍国主義から民主主義の経済大国へと見事に変身したのである。
中国はいまだに立ち後れ、貧困から抜け出すことができていない。その最も重要な原因は、自尊自大な国民性にある。中国人はいつも自分の長所ばかりを強調し、逆に他人の欠点を過大視する傾向がある。欧米に学ぼうという話になると、多くの中国人は、中国には中国なりの長所があり、欧米には欧米の短所があると、自己弁護を行う。中国人は欧米の科学技術の面における優位性は何とか認めるが、欧米文明の中華文明に対する優位性は決して認めようとしないのである。日本人が二回もノーベル文学賞を獲得したのに対して、中国人はいまだに獲得したことがない。中国人はこうした現象を中国現代文学が日本のそれより劣っているためではなく、むしろノーベル賞の評価のあり方に問題があると理解している。
中国人の自尊自大の態度は、日本のように他国の経験を謙虚に学ぶことを妨げている。これまで、中国人がそう遠くない将来、日本を追い越す夢を何度も見たが、それを現実にすることはできていない。
原因2:中国人は現状に安住するが、日本人は絶えず進歩を求める
1950年代、日本がアメリカに商品を輸出し始めた頃、MADE IN JAPANは現在のMADE IN CHINAと同様に、「安かろう、悪かろう」の同義語であった。当時、日本製の1ドルのワイシャツはアメリカの商店では、最も安い品物用の棚に置かれ、その一方で、10ドルもするアメリカとヨーロッパ製のワイシャツが高額商品の棚に陳列されていた。
そこで、日本の服装メーカーは考え始めた。なぜ同じワイシャツでありながら、日本製がわずか1ドルなのに、アメリカとヨーロッパ製のものは10ドルもするのであろうか。そこで、日本のメーカーは各種の高級ワイシャツを買い集め、高級ワイシャツを生産する秘密を研究し始めた。10年後、日本製のワイシャツは高級品の棚に置かれるようになり、安売りの棚には見かけなくなったのである。
中国は1980年代初めから、アメリカに1ドルのワイシャツを輸出し始めたが、現在になっても、依然として同じ物を作っている。1ドルのワイシャツでも売れてさえいれば、それを永遠に作ろうとする、すなわち製品に対する革新の精神が欠けている。中国では、数百のカラーテレビの生産ラインを導入したが、各メーカーがそれを頼りにして、永遠に生産しようとしており、なんの技術革新もしてこなかった。
中国人が現状に安住した結果、中国製品のモデル・チェンジは受身になりがちで、製品が売れなくなるまでは改良をしない。これに対して、日本企業は製品のモデル・チェンジを積極的に行っている。従って、中国企業の製品は常に日本製品の競争相手になれないのである。
現在、一部の中国人が日本製品に対するボイコットを主張している。しかし、こうした人々は中国人が日本の製品を買いたがる理由が何か、ということは殆ど考えたことがない。仮に日本の製品より中国製のものが高品質で価格も手頃であれば、ボイコットするまでもなく、日本製品は自然に淘汰されてしまうであろう。中国人はひたすら日本製品のボイコットを主張するが、いかに中国製品の品質を向上させるかについては、何の方策も捻り出せないのである。
原因3:中国人は私利私欲ばかり追いかけるのに対し、日本人は滅私奉公の心を持っている
中国人がバスに乗るとき、我先に席を奪う風景を多く見かける。中国人は私利に対して、非常に敏感で、例えば、バスでの席のようなほんの小さいことも他人に譲らない。中国の国有企業も日本の企業も「大鍋飯」(親方日の丸)に特徴付けられるが、日本の場合、それが全員に豊かな生活をもたらしたのに対して、中国の場合、揃って貧乏になってしまった。日本人は結果に関係なく一生懸命に働いている。少し他人より多く働いたことを損したと思う人はだれもいない。中国人の発想は全く逆である。すなわち、いかに自分が他人より少なく働くかしか考えないのである。結果的に、みんなが仕事をサボることになる。中国共産党が掲げている滅私奉公を原則とする「大鍋飯」は、結局、行き詰まってしまったのである。
中国人の世界観は、「自分の利益しか考えず、困難がある時は他人に犠牲になってもらう」というものである。これに対して、日本人は滅私奉公の精神を中国人よりはるかに強く持っている。日本軍が戦うとき、士官の死亡率は非常に高い。なぜなら、日本の士官達は普通の兵士より前に進んでいるからである。日本軍の勇敢さの理由の一つはここにある。中国軍の場合、士官が最も後ろに隠れ、銃を構えて兵士達に前に進むように命令するだけである。中国の軍人達が他人を犠牲に自らの安全を図る猿知恵は、結果的に中国軍の敗北と大きな犠牲をもたらした。「目先の利益を追いかけて、結果的に、大きな損失を被る」ということである。
現在、中国の大学生達はひたすら海外に行きたがり、貧困から抜け出そうとしているが、中国本土に残り、中国人全体を貧困から脱出させるという責任を担おうとする者は少ない。1950年代、日本はアメリカに大量の留学生を派遣したが、当時のアメリカの生活水準が日本よりはるかに高かったにもかかわらず、学問を修めてから帰国しない日本人は極めて少なかった。戦乱に遭うたびに、中国人は各種の文化財と文化遺産を盗みだそうとしている。最近の新聞には、中国人が貴重な仏像の頭部を切り落とし、それを海外で売りさばくといった記事が載せられていた。しかし、日本では第二次世界大戦当時、空襲で多くの名所旧跡が破壊されたが、その隙を見て文化財や文化遺産を盗もうとする人は殆どいなかった。日本人の祖国に対する献身の精神と責任感は、中国人にとって理解しにくいものである。
中国人の心の中では、自分という「小我」しかなく、国家と民族という「大我」という発想が存在しない。かつて孫文は中国人をばらばらな砂だと例え、中国人の「心」をまとめる手段がどこにもないと語った。中国人の世界観に、自分自身の利益を越えた「大我」という観念を形成させない限り、中国人が世界先進の民族への仲間入りを果たすことは永遠に不可能であろう。
原因4:中国人は内部闘争を好むが、日本人は一心団結している
あらゆる集団には競争と団結の両面がある。しかし、中国人は集団内部の競争を闘争へと転換させることを好んでいる。かつて、中国人同士の闘争が中国にもたらした被害は、外国の侵略によるものをはるかに超えている。そもそも中国人にとって、お互いに対立しあう傾向は生まれつきのものであり、それは政治運動の時に最もよく現れる。中国人は小さな頃から他人を信用しない教育を受けてきた。政治運動が訪れるたびに、中国人はお互いを疑い、他人の秘密を暴露あるいは密告する。場合によっては、自らの利益のために他人を犠牲にすることも辞さない。
日本人の間にも内部の闘争はある。しかし、それには限度があり、共同の利益が損なわれるまでには発展しない。これに対して、中国人の内部闘争は留まるところを知らない。自らの敵を倒すには、中国人は異民族あるいは外国人の力を借りてでも、その目的を実現しようとする。かつて呉三桂は李自成を倒すために、清に軍隊の派遣を要請し、同じ民族との戦いに臨んだ。汪精衛は蒋介石との権力闘争のために、日本人の手先になることも辞さなかった。中国人は、外部にいる共通の敵より、内部の敵をやっつけた方が重要だと思うため、国を裏切る者が大勢いる。
日本人は戦争捕虜を虐待することで有名であるが、同胞を虐待あるいは迫害するという話は聞いたことがない。中国人は外国の捕虜に対して、非常に友好的である。中国で服役した日本人の捕虜達も人道的な扱いを受けてきたとの多くの証言がある。しかし、中国人は同じ中国人の捕虜に対して非常に残虐である。共産党と国民党の内戦で捕虜になった兵士達の運命は非常に悲惨なものであった。中国の教科書には、「中華民族は平和を愛する民族である」と書かれている。中国人は、確かにめったに外部の民族を侵略しない。中国人はほかの民族との平和を愛するが、しかし自らの民族同士の平和を愛していないようである。文化大革命での内部闘争を経験してきた中国人は、「中華民族が平和を愛する民族である」という表現に対して、疑問を持っているであろう。
現在、中国人の内部闘争は経済分野にまで及んでいる。中国のメーカーは輸出を獲得するためにひたすら価格競争を行い、結果的に、全てのメーカーが大きなダメージを受けてしまうことになる。日本企業は日本国内においては激しい競争を展開しているが、しかし一旦海外に出ると、お互いに協力し合う傾向が見られ、海外市場を獲得するために激しい内部闘争を行う現象は殆ど見られない。これが日本の輸出が絶えず黒字を保つ理由の一つでもある。
一人一人の日本人はたいしたことはないが、しかし、日本人が10人集まると状況が一変する。ばらばらである中国人は、結局、団結力の強い日本人との競争に勝てないのである。日本人が一心団結できる秘密はどこにあるのであろうかと日本人に聞くと、逆に、どうして同じ民族同士の団結がそれほど難しいか、そのこと自体が理解できないという答えが返ってくる。このように、民族性は決して短期間で形成されたものではない。内部闘争を好む中国人の国民性を変えるには、一世代あるいは二世代以上の時間を要するであろう。
原因5:中国人は忘れがちであるが、日本人は執着心が強い
日本人が新年の初詣に靖国神社を参拝することは、戦犯を偲ぶもので、軍国主義復活の兆候であると、中国国内では絶えず批判の声がある。その動機はどうあれ、毎年、大勢の日本人が自発的に神社に参拝していることは、日本人には、昔国家に命をささげた「先祖」達に対する感謝の気持ちがあることを物語っている。一方、抗日戦争(日中戦争)の際、国家のために大勢の中国人が犠牲になったが、現在、その存在は殆ど忘れられ、ましてその魂を参拝することはありえない。自らの祖国に命を捧げた先祖をすぐ忘れてしまう民族には、強大な民族集結力が永遠に訪れないのである。
戦後、日本は巨額の資金を投入し、かつて激戦が繰り広げられていた太平洋の島々に残された日本兵の遺骨を日本に持ち帰り、埋葬している。ベトナム戦争後、アメリカはベトナムと国交を回復する際、ベトナムに対しアメリカ兵の遺骨の返還とベトナム各地における米兵の遺骨の調査を行う事を要求した。しかし、中国とベトナムとの関係の正常化が実現するときに、戦死した中国兵士の遺骨を回収に関する問題は殆ど提起されたことがなく、人気のあった中越戦争の中国軍の英雄達も、現在は忘れられようとしているし、まして朝鮮戦争、抗日戦争でなくなられた先祖のことは、完全に忘れられているといっても過言ではない。
中国人は絶えず日本に侵略された歴史を忘れるなと言い張るが、実際、大多数の中国人はもはやその事実を忘れかけている。中国の大学生が日本留学を試み、少女ができるだけ日本人との結婚を望み、そして農民達が相次いで日本に密入国を図る現状からも、中国人の日本に対する憎しみの度合いを推し量ることができよう。数年前にユーゴスラビアで中国大使館がアメリカの誤爆にあったが、それによって引き起こされた中国大学生達の激しい反米感情はわずか数ヶ月程度ですっかりなくなった。TOEFLの試験を受けてアメリカに行きたがる人数は減るどころか、むしろ増加していることも、中国人が歴史を忘れがちであることを示す一例であるといえる。
最後の問題:果たして中国は日本に追いつけるのか
多くの中国人、とりわけ殆ど日本人と接触したことのない中国人達は、日本人に対する一種の「先入観」を抱えている。それは、日本人が非常に特殊な民族であり、野蛮で心黒いというものである。自分の罪をなかなか認めようもしなければ、謝罪も拒んでいる。また中国人を特に軽視する上に悪意も持っている。さらに、機会さえあれば中国人に恥をかかせ、中国を滅ぼし、中国人を奴隷にしようと考えている、と思いこんでいる。極端な場合、スポーツでの日本との対抗試合を血の流れない戦争と見なし、勝利すれば心が晴れ意気揚々となる等、日本人には絶対負けたくないという気持ちが特に強い。
中国人は日本に追いつくことをいつも夢見ているが、日本人の優れた所を真正面から評価しようとも、そして自分の弱点も認めようともしない。確かに日本人にも多くの短所と問題がある。しかし、もしわれわれが日本人の短所だけを強調し、絶えずそれを批判し、色めがねで日本を観察しても、日本の発展になんら影響も与えないだけでなく、逆に自分の視野を狭くしてしまったのである。昔、中国人はソ連とアメリカを帝国主義として多くの悪口を言ってきたが、相手を懸命にののしった結果、ソ連とアメリカの実力どころか、むしろ自分の国力を削減しただけであった。
日本人はアメリカに敗れたことを自らの恥であるとみなし、逆に中国人は日本に敗れたことを日本の恥であると考えている。実は、日本になかなか追いつけないという事実は、まさしく中国人自身の恥なのである。自分に言い訳を求める手段として日本に批判を展開する人々は、中国人の自尊心を満足させるだけで、中国の発展と進歩になんの役割も果たせないのである。
もし別の角度から日本を見れば、日本人は非常に謙虚で勉強好きで、絶えず進歩を求め、そして滅私奉公の精神を持ち、忍耐強く、粘り強い民族で、世界で最も優れている民族の一つであるということがわかる。中国人が日本に追いつけないのは、結局、中国人自身の抱える問題があまりにも多すぎることにある。中華民族が多くの短所と問題を抱えている民族であることを、中国人が自ら認め、絶えずそれを変えることに努力しなければならない。これができなければ、中国が日本に追いつく夢は泡のように消えてしまうだろう。
投稿者: Anonymous | 2004年09月03日 21:30
チベットで虐殺を繰り返す、中国軍!
チベット僧を縛り上げ、棒でたたき殺し、
寺を破壊する悪魔の中国兵!
日本に捏造の南京虐殺をつきつけるその裏で、
本物の虐殺を中国共産党がおこなっていた!
トラックにゴミのように乗せられたチベットのお坊さんは、
全員が、みせしめに虐殺された!
この真実はくつがえせない↓
http://www.kinaboykot.dk/video.htm
http://www.kinaboykot.dk/images/soldater.rm
投稿者: 中国兵 | 2004年09月04日 10:17