「風のたより」のマンガ対談
夏目房之介氏のblogを拝見していたら、石ノ森章太郎先生と夏目氏との対談が、石ノ森章太郎ファンクラブの会報「風のたより」に掲載されているという文章が目にとまった。
しかも、その対談では、以下のようなことが話されているという。
ぼくは我が師でもある石ノ森章太郎先生について、マンガの技術の面から、もっと評価されていいと、ずっと考えていたのだが、やはりマンガの実作者である夏目氏も同じことを考えていたらしい。しかもマンガの引用について、夏目氏は当然だが、石ノ森先生もぼくと同じ考え(なんか不遜な書き方だなあ……)で安心した。
というわけで、この対談のことが気になり、コネを使って「風のたより」を手に入れた。
今日、届いた「風のたより」の奥付を見ると、「第三七巻 三号(通巻三三八号)」になっている。そうそう石森章太郎ファンクラブ(最初の名称)がスタートしたのは、いまから37年前、1967年のことだったのだ。
ぼくが初めて石森章太郎(当時の名前)先生のお宅を訪ねたのが、この年の3月のことだった。その後、夏休みだったかに上京し、当時、マンガ専門誌「COM」などで名前を知られた新宿のマンガ専門喫茶「コボタン」に同人誌(「墨汁三滴」といった)の仲間と出かけたことがある。そこに偶然やってきたのが、初代・石森章太郎ファンクラブの会長・青柳誠クンだった。どちらも高校2年生で、ぼくは私服だった気がするが、青柳クンは学生服姿だった。
「こんど石森章太郎ファンクラブを作ったんだけど、君たちは入らないといけないでしょう」
といって青柳クンは、強引に入会申込書を押しつけてきた。もちろんぼくたち(ひおあきら、河あきら、細井ゆうじ、すがやみつる等……)が、石森先生が主宰していた同人誌「墨汁一滴」の名前をいただいた「墨汁三滴」という同人誌のメンバーで、石森先生が名誉会長になっていることも知ってのうえでの発言である。
ぼくもその場で入会し、「0014」あたりの会員番号をもらったはずだが、その後、石森プロで仕事をするようになってからは、ファンクラブの会員でいるのが恥ずかしく、会費未納のまま退会ということになった。
それにしても、あのコボタンで会員勧誘をしていたときから37年かあ……。オッサンになるワケだなあ……と感慨にふけりつつ「風のたより」を開いたのだが、A5サイズ33ページにわたって掲載された対談の内容は、実に圧巻。ファンクラブの会報にだけ掲載しておくのは惜しい充実した内容で、目先の仕事もそっちのけで一気読み。
やはりマンガの実作者でもある夏目氏の質問がツボを衝いているために、石森先生も、待ってましたとばかりに喜々として話している雰囲気がある。
ぼくは、石森プロで「冒険王」や『テレビマガジン」連載の『仮面ライダー』のマンガを描いていた頃、原稿の監修を受けるため、夜討ち朝駆けのようにして石森先生のところに通い詰めていた。ネーム、下絵、ペン入れ、完成原稿……と最低4回のチェックを受けるのだが、当然、ネームや下絵の段階で、何度もやり直しになることが多く、いつもヘロヘロになっていた。
『仮面ライダー』は、こちらの力量に関係なく、テレビの人気のせいでマンガのページ数も増え、直しが出ると、それだけで締切に間に合わなくなったり……と、いつも綱渡りのような状態で原稿を描いていた。
下絵の段階で、アクションシーンの構図がまずいと直しが出たりすることも日常茶飯事だったが、何日もろくに寝ていない状態で、ここで直しが出たら原稿が落ちるかもしれない……というのも、いつものことだった。そんなとき先生は、「しょうがないなあ……」とボヤきながらも、「動きがない」といわれたコマの枠線を斜めに引き直して、「ほら、身体の線とコマの線が平行じゃなくなっただけで動きが出るだろう」と、窮余の一策を授けてくれたものだった。
先生の仕事が忙しくて、監修を待たないといけないときは、先生が仕事する背後に立って、じっとペン入れの様子を見つめていた。すると先生は、その視線が気になるのか、ペン入れをしながら、なぜ、このようなコマ割りにしたのか、なぜ、このような構図を選んだのか――といったことを解説してくれるのである。コマ割りや構図、そして吹き出しの配置といったことまで含め、「なんとなく」とか「雰囲気で」といったことはなく、必ず、1コマ、1コマに、「意図」があり「理由」があった。
『ジュン』のような詩的な作品も多いせいか、「感性」で描くマンガ家のようにいわれることもあったが、石森先生は、「マンガは技術(テクニック)で描くもの」という意識が強かったのではなかろうか。「マンガ家入門」の『龍神沼』の解題などは、映画の技法を採り入れた「テクニック」の解説でもあった。映画でいえば監督が担当する「演出」のテクニックでもあったはずだ。『龍神沼』の自己解題も、やはり映画の技法に準じていた。
石森先生は、ぼくの『仮面ライダー』の原稿に直しを加えるときも、どうしたら動きが出るか、奥行きが出るか、迫力が出るか……といったことを、「理論」付きで説明してくれたものだった。ぼくにとっては、マンツーマンの「マンガ家入門」みたいな状態で、のちに、石森先生が、「うちにはアシスタントはたくさんいたが、弟子は、すがやがひとりだけだった」といってもらえたのは、このあたりのことを指しているのだろう。当時は、とにかく原稿を間に合わせるので必死だったが、いま考えると、よくもまあ、こんな不肖の弟子に、手取り足取り教えてくれたものである。
ああ、それにしても、「石森マンガの技術論」については、その「線」から「演出面」まで含め、いつか書いてみたいものだ……。
しかも、その対談では、以下のようなことが話されているという。
『石ノ森さんの子供時代から70年以降までかなりつっこんで聞いた。小説家か映画監督になりたかった思いを残し、何となく「遊び」みたいな気持ちできてしまった思いを正面から語られた、貴重な記録だと思う。
また、当時マンガ図版の正当な引用を主張していた僕に「少なくともウチは、やってくれていいですよ。評論も技術論から入るべきだ」という励ましの言葉をいただいた、思い出深い取材である。』(夏目氏のblogより)
また、当時マンガ図版の正当な引用を主張していた僕に「少なくともウチは、やってくれていいですよ。評論も技術論から入るべきだ」という励ましの言葉をいただいた、思い出深い取材である。』(夏目氏のblogより)
ぼくは我が師でもある石ノ森章太郎先生について、マンガの技術の面から、もっと評価されていいと、ずっと考えていたのだが、やはりマンガの実作者である夏目氏も同じことを考えていたらしい。しかもマンガの引用について、夏目氏は当然だが、石ノ森先生もぼくと同じ考え(なんか不遜な書き方だなあ……)で安心した。
というわけで、この対談のことが気になり、コネを使って「風のたより」を手に入れた。
今日、届いた「風のたより」の奥付を見ると、「第三七巻 三号(通巻三三八号)」になっている。そうそう石森章太郎ファンクラブ(最初の名称)がスタートしたのは、いまから37年前、1967年のことだったのだ。
ぼくが初めて石森章太郎(当時の名前)先生のお宅を訪ねたのが、この年の3月のことだった。その後、夏休みだったかに上京し、当時、マンガ専門誌「COM」などで名前を知られた新宿のマンガ専門喫茶「コボタン」に同人誌(「墨汁三滴」といった)の仲間と出かけたことがある。そこに偶然やってきたのが、初代・石森章太郎ファンクラブの会長・青柳誠クンだった。どちらも高校2年生で、ぼくは私服だった気がするが、青柳クンは学生服姿だった。
「こんど石森章太郎ファンクラブを作ったんだけど、君たちは入らないといけないでしょう」
といって青柳クンは、強引に入会申込書を押しつけてきた。もちろんぼくたち(ひおあきら、河あきら、細井ゆうじ、すがやみつる等……)が、石森先生が主宰していた同人誌「墨汁一滴」の名前をいただいた「墨汁三滴」という同人誌のメンバーで、石森先生が名誉会長になっていることも知ってのうえでの発言である。
ぼくもその場で入会し、「0014」あたりの会員番号をもらったはずだが、その後、石森プロで仕事をするようになってからは、ファンクラブの会員でいるのが恥ずかしく、会費未納のまま退会ということになった。
それにしても、あのコボタンで会員勧誘をしていたときから37年かあ……。オッサンになるワケだなあ……と感慨にふけりつつ「風のたより」を開いたのだが、A5サイズ33ページにわたって掲載された対談の内容は、実に圧巻。ファンクラブの会報にだけ掲載しておくのは惜しい充実した内容で、目先の仕事もそっちのけで一気読み。
やはりマンガの実作者でもある夏目氏の質問がツボを衝いているために、石森先生も、待ってましたとばかりに喜々として話している雰囲気がある。
ぼくは、石森プロで「冒険王」や『テレビマガジン」連載の『仮面ライダー』のマンガを描いていた頃、原稿の監修を受けるため、夜討ち朝駆けのようにして石森先生のところに通い詰めていた。ネーム、下絵、ペン入れ、完成原稿……と最低4回のチェックを受けるのだが、当然、ネームや下絵の段階で、何度もやり直しになることが多く、いつもヘロヘロになっていた。
『仮面ライダー』は、こちらの力量に関係なく、テレビの人気のせいでマンガのページ数も増え、直しが出ると、それだけで締切に間に合わなくなったり……と、いつも綱渡りのような状態で原稿を描いていた。
下絵の段階で、アクションシーンの構図がまずいと直しが出たりすることも日常茶飯事だったが、何日もろくに寝ていない状態で、ここで直しが出たら原稿が落ちるかもしれない……というのも、いつものことだった。そんなとき先生は、「しょうがないなあ……」とボヤきながらも、「動きがない」といわれたコマの枠線を斜めに引き直して、「ほら、身体の線とコマの線が平行じゃなくなっただけで動きが出るだろう」と、窮余の一策を授けてくれたものだった。
先生の仕事が忙しくて、監修を待たないといけないときは、先生が仕事する背後に立って、じっとペン入れの様子を見つめていた。すると先生は、その視線が気になるのか、ペン入れをしながら、なぜ、このようなコマ割りにしたのか、なぜ、このような構図を選んだのか――といったことを解説してくれるのである。コマ割りや構図、そして吹き出しの配置といったことまで含め、「なんとなく」とか「雰囲気で」といったことはなく、必ず、1コマ、1コマに、「意図」があり「理由」があった。
『ジュン』のような詩的な作品も多いせいか、「感性」で描くマンガ家のようにいわれることもあったが、石森先生は、「マンガは技術(テクニック)で描くもの」という意識が強かったのではなかろうか。「マンガ家入門」の『龍神沼』の解題などは、映画の技法を採り入れた「テクニック」の解説でもあった。映画でいえば監督が担当する「演出」のテクニックでもあったはずだ。『龍神沼』の自己解題も、やはり映画の技法に準じていた。
石森先生は、ぼくの『仮面ライダー』の原稿に直しを加えるときも、どうしたら動きが出るか、奥行きが出るか、迫力が出るか……といったことを、「理論」付きで説明してくれたものだった。ぼくにとっては、マンツーマンの「マンガ家入門」みたいな状態で、のちに、石森先生が、「うちにはアシスタントはたくさんいたが、弟子は、すがやがひとりだけだった」といってもらえたのは、このあたりのことを指しているのだろう。当時は、とにかく原稿を間に合わせるので必死だったが、いま考えると、よくもまあ、こんな不肖の弟子に、手取り足取り教えてくれたものである。
ああ、それにしても、「石森マンガの技術論」については、その「線」から「演出面」まで含め、いつか書いてみたいものだ……。
コメント
石森先生の『仮面ライダー』。ヒーロー物の先駆けとして語られることが多い(もしくはそれでしか語られることのない)作品ですが、私個人的には中期の“技術的最高傑作”とか思ってます。
それはさておき、是非読みたいですね、「石森マンガの技術論」。
投稿者: KOBIYASI | 2004年07月25日 14:38
>それはさておき、是非読みたいですね、「石森マンガの技術論」。
そのために、ちょっとあれこれお勉強しなければならないことがありまして、まだ数年はかかりそうです。気長にお待ちください。
投稿者: すがやみつる | 2004年07月26日 20:18
はじめまして。
トラックバックをありがとうございます。
こんな貴重な証言を・・・・もったいない(笑
「石森マンガの技術論」僕もお待ちします。
突然、失礼いたしました。
PS
でも、「コポタン」懐かしいですねぇ。僕は、大学生で宮谷一彦原画展をみたのをおぼえてます。あまりの精緻さに腰が抜けるかと思いましたよ(笑)。
投稿者: 夏目房之介 | 2004年07月27日 01:24
>夏目さま
コメントをありがとうございました。
トラックバックを送信して、お気づかいさせてしまったのではと恐縮しています。
対談のこと、宮谷さんのことなどは、夏目さんのblogにコメントさせていただきました。
マンガ評論のご著書も大半を購入させていただき、愛読させていただいています。年代も同じせいか、青春期に読んだマンガについての思い出など、ちょっと顔を赤くしたりしつつ読んでおりました(笑)。
これからも、よろしくお願いいたします。
投稿者: すがやみつる | 2004年07月27日 03:16
ああ、なんだか好きな話がこんなところでも。
ぼくは石森プロと遺族と東映には目の敵にされてますが、
石森さんの優れた作品には、ほんとに今でもほれぼれと
見入ってしまいます。手塚さんと並んで、ページを開いて
いるだけで何時間でも過ごせる漫画家です。
すがやさんの秘蔵のお話、もっと聞きたいですね。
いきなり失礼しました。
投稿者: いしかわじゅん | 2004年08月11日 02:32
ああ、いしかわじゅんさんだあッ! ……と、ほとんどミーハーしています(笑)。
寝る前に布団の中で何か本を読まないと寝つけないのですが、偶然、一昨日から「漫画の時間」を読んでおりました。再々々読くらいだと思いますが、ただ、ここで紹介されているマンガ家の半分くらいしか、名前を知らなかったりもします。
8日に「石ノ森章太郎ふるさと記念館」、9日に「石ノ森萬画館」に出かけてきて、石森先生の数多くの作品と対面してきました。絵からコマ割りから構図まで、やはり60年代の作品が一番よかったですね。ナマ原稿を食い入るように見てきてしまいました。
「石森章太郎のできるまで」に、ぼくは興味があったのですが、生家を訪ねたり、また「石ノ森章太郎ふるさと記念館」に再現されているトキワ荘の室内を見たりして、少し、わかってきたような気がしています。なお、再現されたトキワ荘の室内に置かれた本箱には、早川書房のポケットSFがズラリと書棚に並んでいました。60年代に描かれたSFマンガの発想の源も、このあたりにあるのでしょうね、きっと。
石森先生は、夏空に突き立つ入道雲を好んで描いていましたが、あれも故郷の夏空を思い出して描かれたものなんだということが、今回、宮城に出かけてみて、よくわかりました。
投稿者: すがやみつる | 2004年08月11日 12:05